「円買い・ドル売り介入」の一考察 過去はどうだった!?

2022年10月3日 16:20

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 政府・日銀が9月22日、24年ぶりに「円買い・米ドル売り」の為替介入に踏み切った。単独介入。介入を受け22日のニューヨーク円は一時、1ドル・140円余の水準まで5円程度の円高となった。が、介入効果一巡後は10月2日の海外市場:144.80円水準。

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 24年前の為替介入(円買い・米ドル介入)は、1998年4月10日に始まった「日米協調介入」。月中平均値で1月の129.45円だった対米ドルの円相場は、4月で131.66円という「円安」の推移を示していた。財務省財務官の榊原英資氏は、介入に強力な姿勢を示した。4月10日には、当時としては2兆6,000億円という過去最高のドル売り・円買いが実施された。

 だが結果は、円安の進行は止められなかった。8月には147円台まで進んだ。

 今回の24年ぶりの為替介入の結果は、時間の経過を見守るしかない。介入直後の時事通信は、「介入原資は約20兆円」と伝えた。が、現状を見る限り「145円が当面の円の下値」の役割は果たしてはいるが、という状況。

 今回の為替介入に接し、1985年のプラザ合意前後の出来事が思い出した。2期目を迎えたレーガン政権は、いわゆる「レーガノミクス」の失政で双子の赤字(財政赤字・貿易赤字)に晒された。対して第2次オイルショックを切り抜けた日本経済は、1980年には一時9%まで引き上げられていた公定歩合を、84年には5.58%にまで引き下げ一転してハイテク商品を軸に輸出攻勢に転じていた。

 米国内には「反日ムード」が盛り上がっていった。影響力を持つ著名人の発言も相次いだ。現代経営学の創始者とされるピーター・ドラッカーも、「日本の貿易は敵対的だ」と断じた。

 そうした状況下で1985年9月27日にニューヨーク:プラザホテルで、先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議が開催され『プラザ合意』で合意した。「ドル高是正・ドル安容認・各国によるドル売り協調介入の実施」。この合意が直前に1ドル・240円水準だった円相場を、アッという間に120円台の円高を実現する号砲となった。

 プラザ合意には前段があった。1983年に米国・バージニア州で開かれた先進国蔵相・中央銀行総裁「代理会議」。フランスのミッテラン大統領の「為替相場の見直しが必要ではないか」という提案で開催された。

 日本からは大蔵省財務官:大場智満氏(後に国際金融情報センター理事長)が参加した。後日、大場氏からこう聞いた。

 「双子の赤字解消には為替市場への介入も『不均衡是正』の一方の有力な手段、とする方向で話は進んで行った。大蔵省にも『円は過小評価されている』という思いがあった。ある程度の円相場の上昇は当然と考え検討の場に臨んだ。具体的には205円前後まで、15%程度の円の上昇は仕方がないと考えていた」。

 こうした事前協議を経て、プラザ合意は実現した。が、大場氏からこうも耳にした。

 「あれほど一気にドル安(円高)が進もうとは、我々の誰もが予想しなかったことは間違いない」

 各国の通過マフィアが予想し得なかったことが起こった、というのだ。

 直後の日本の「円高不況」もあり、86年には円相場は160円から170円台で落ち着くかに見えた。87年2月にはG7の間で、「ドル高修正の目的は達した」とする『ルーブル合意』が出された。にもかかわらず、円は上昇を続けた。

 「予想外」の出来事が起こった。米国の金利上昇。金利が上がれば債券価格は下落する。金利が下降傾向のうちはドル安による為替差損も、債券価格の上昇でカバーできる。だがドル安・債券安:金利高になると、米国債投資=ドル買いは減少に転じる。ドル安スパイラルが加速したのだ。

 予想外のドル下落は、日本経済をしてバブルに引き込む引き金になった。

 急激な円高で、輸出産業は大打撃を受けた。円高不況に対し日本は「大型財政出動」「金融緩和」で対峙した。いわゆる『前川リポート』の断行。

 1986年4月、中曽根康弘首相が設立した私的顧問機関の座長に、元日銀総裁の前川春雄氏が就いた。87年4月にまとめられ提言されたのが前川レポートは円高不況対策として、「公定歩合の(87年に当時としては史上最低水準の2.50%まで)引き下げ」「財政出動の加速」が提言され実行された。金の流れが急激に膨らみ、円安が加速したのだ。

 株も為替も同様。介入により「つくられた」相場は、「想定外の流れを生み出す」ことを教えている!?(記事:千葉明・記事一覧を見る

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