日銀総裁を振り返る やはり黒田・日銀は超異色だったと言わざるを得ない!

2022年12月28日 16:08

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 第31代の日銀総裁:黒田春彦氏の退任が来春に予定されている。兜町には「黒田総裁退任=金融緩和の出口論」が聞かれ始めていた。が、黒田氏は先立って?「金融緩和ではない」としながら、長期金利(指標国債10年物利回り)を現行の0.25%から、0.5%水準に引き上げた。株式市場には困惑が広がっている。

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 日銀と株式市場の関係は歴史的にどんな状況なのか。これまでにも黒田・日銀ほど、相場に影響を与えた日銀総裁・金融施策はあったのだろうか。遡ってみた。

 だが「直接影響した動向」は限られている。

 日銀誕生は、1882年(明治15年)10月10日。初代総裁は吉原重俊。何故、日銀は設立されたのか。明治政府は殖産興業政策を進めた。が、財政基盤が確立していなかった。不換紙幣(流通通貨と交換できない)の発行に頼らざるを得なかった。当然インフレが発生する。

 1881年に大蔵卿(現、財務大臣)に就任した松方正義は、不換紙幣を整理し正貨兌換の銀行券を発行する中央銀行:日銀を設立した。初代総裁:吉原のなすべき仕事は政府・全国各地の国立銀行が発行していた不換紙幣を回収し、日銀が発行する兌換紙幣を現金通貨の中心にすることだった。

 その後、1945年の終戦まで16人の日銀総裁が登場している。が、株式・為替相場との絡みは見て取れない。

 唯一、国の経済・財政再建に直接関わった総裁としては7代目(1911年~13年)の高橋是清がいる。だが日銀総裁時代は「日露戦争の戦費調達のための外債募集」の実績にとどまる。

 東証の戦後の再開は、1949年5月16日。GHQの支配下に置かれ、株式市場の再開は4年余り認められなかった。総司令官:マッカーサーの判断に委ねられていた。証券各社は再三再四、陳情・嘆願した。
 が、そうした動向の中にあっても第18代日銀総裁:一万田尚登(1946年6月1日~1955年12月)の関わりは、見受けられない。

 金融筋の見方としては、日銀総裁と株式市場の関係が兜町で問沙汰されたのは「プラザ合意」に際しての第25代総裁:澄田智である。

 プラザ合意は1985年9月27日、G5の財務大臣・中央銀行総裁会議で合意した。いわゆる「レーガノミクス」の失政で双子の赤字に晒された米国の救済策。参加各国による「ドル売り協調介入」。円は急騰した。円高不況。86年のGDP成長率:4.7%が87年には2.7%に急降下。ハイテク商品を軸に輸出攻勢をかけ始めた矢先だった。兜町には、こんな声が沸き起こった。

 「竹下(登)蔵相は中曽根(康弘)首相から『レーガンと俺の中は知っているよな。助けてやれ。後(の総理)はお前に譲るから』と言われた。澄田にも中曽根が『表舞台に立てなかった日銀にはかっこうの機会だ。お前次第で日銀の存在感は変わる』と耳打ちした。澄田は飛び乗った」とされた。

 円高は進み続けた。公定歩合を引き下げた。市中に溢れた金が、バブル相場に繋がっていった。

 と振り返ると、黒田東彦氏は異例の日銀総裁(だった)といえる。(記事:千葉明・記事一覧を見る

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