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ソニーに金融機関(ソニー生命)をもたらした故盛田昭夫の執念 (4)
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盛田は「ハイそうですかというわけにはいかないが、申し出に事業家の一人として合点がいく部分もあった」とし、こう続けた。
【前回は】ソニーに金融機関(ソニー生命)をもたらした故盛田昭夫の執念 (3)
「マクノートンの時代が終わり新体制に移行したプルデンシャルは、インターナショナルな総合金融機関化の確立に戦略の舵を大きく切った。米国の名門証券会社ベーチェ証券を傘下に収めた時点で僕はそう確信した。ベーチェ証券は国際展開をしており日本にも支店を出していた。そんなプルデンシャルが世界でも一・二を争うおいしい金融市場になった日本にどんな思いを抱くかは容易に想像できた。生命保険分野ではうちとの一対一の合弁では隔靴掻痒の感が否めない。100%実権を持った経営をやりたいと考えるのは当然だ」
プルデンシャル側も日本進出に際しての盛田とマクノートンの間のいきさつを百も承知していた。だから盛田が簡単にOKと言うはずがないと察していたからこそ遠回しな交渉で臨んできたのだ。が、あの手この手のアプローチも行きつく先が「ソニーの持ち株を売って欲しい」であることは自明の理だった。
盛田はある時を境に交渉のテーブルで口を堅く閉ざしてしまった。「相手が切り出した条件や前提で交渉に応じることは相手の土俵で相撲を取るのと同じ。主導権を握られた交渉ほど馬鹿げたものはない。これは“だんまり”が一番と判断した。なにがなんでも日本で単独ビジネスを展開したいならうちは別会社をつくる。ソニー・プルデンシャルの株はソニーで買い取ってくれ、となるはずだと思ったからだ」と振り返った。盛田の戦術は功を奏した。業を煮やしたプルデンシャルは読み通りにこう切り出したのである。
「うちが持つ合弁会社の株をソニーで全て引き取ってくれ」
盛田はようやく口を開いた。
「OK、買い取ろう」。盛田は「僕は営業畑の人間。喋りは重要な武器。いくら“沈黙は金(きん)”と思っていてもそれを続けることにはきついものがあった」と打ち明け笑った。読み通りの言質を引き出すまでは沈黙を続けるべきだと考えた盛田には、ある確信と賭けがあった。
「大蔵省への大義名分が立つと考えた。持ち株をプルデンシャルに売り渡し白紙の状態で生保設立を申請したのでは大蔵省はウンと首を縦に振るはずがない。しかし一度認めた合弁会社で先方から“持ち株を引き取ってくれ”と申し込んできたとなれば話は別だ。今度こそ大望だったソニー単独の金融機関を持つ可能性大だ」
しかし盛田は「ソニー単独資本の生保を大蔵省がOKを出すはずがない」と踏んだ。と同時に「しかし申請は単独資本でやる。でなくてはギリギリ譲れないマジョリティを確保することもままならなくなる」と気を引き締め直した。案の定“100%”を大蔵省は「NO」とした。大蔵省と盛田の交渉はどう展開していったのか。盛田は「大蔵省からはヴィヘイヴ・ユアセルフ(お行儀よくやってくれ)と釘をさされているから詳しくは話せない」としたが、人の口に塀は立てられないのが世の常。
事情を知る周辺関係者からの話を総合すると、ソニーが実質的に経営のマジョリティを握る生保はこんな風に産み落とされた。
大蔵省は盛田の申請を既存の国内生保にリークした。「他業種資本による業界進出反対」の業界世論を高めるためだった。一方の盛田は外堀埋めから始めた。プルデンシャルとの間で「今後どんな風にことが進んでも、我々は新生保の経営には一切口出ししない。ソニー・プルデンシャル時代に我々が身に着けたものは我々のものであり活用に口を挟まない」といった約束を取り付けた。
半年以上に及んだ交渉の過程では大蔵省から「ソニーは従来通り50%の株を保有する。残りの50%は国内の他の生保が分割保有する」といった方向も示された。盛田に飲める筈がない。が、大蔵省の最終裁定は盛田の念願(マジョリティ保持)にかなう以下のようなものだった。
(1) ソニーの持ち株比率は50%とする。
(2) プルデンシャルの持ち株は30%とし子会社のプルコに移す
(3) 10%はソニーの関連会社の所有とする
(4) 10%は国内金融機関が保有する
そして妙なのは「(4)」の金融機関名を特定しなかった点であり、前記した盛田とプルデンシャルの約束に一切介入しなかった点である。国内金融機関は結局、ソニーのメインバンクだった三井銀行・三井信託銀行(当時)が株式を保有した。
疑問を盛田に質した。だが「なぜだったんでしょうな」ととぼけるばかりだった。実は事前に複数の国内生保の関係者から、共通したこんな見方を聞いていた。「盛田さんと宮沢(喜一、当時の大蔵大臣)は親しい間柄だからね。なくなった大平(正芳、元大蔵大臣・総理大臣)が蔵相時代に秘書だった時代からの付き合いだし、英語力にも明らかなように国際派で盛田とは肌が合っていたからね」。とぼける盛田にそんな見方を伝えた。「なんの時だったか同席した折に、一言二言僕の考えを伝えたことはあるよ」に返事はとどまった。
1962年、名称こそソニー・プルコだが実質上の「ソニー生命」が誕生した。盛田は会長職に就いた。そして立ち上がり早々からソニー(プルコ:以下省略)生命は急ピッチで実績を積み重ね始めた。(敬称略)(記事:千葉明・記事一覧を見る)
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