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東証外国部衰退と、米国市場にADR活用で上場相次ぐ日本企業
隔世の感を禁じえない。アフラックが東証外国部からの「上場廃止」を申請した。10月にもその姿を消すという。これで外国部への上場企業は、4社となる。
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1991年の127社をピークとして、日本経済の「失われた20余年間」に、その数は漸減傾向にあった。アフラックの廃止の背景が「取引量が少ないこと」と指摘されている。だとすると「ゼロ」になる日も遠くないのではないか、という思いにも駆られる。
91年と言えば、東証が世界の投資家から注目を集めていたバブル相場期直後(バブル期に世界企業の東証外国部上場が急増している)。バブル期の余韻が残る頃で、私も10余年目のフリーランスの書き屋として兜町界隈をうろうろしていた。
いまのように地球の裏側の状態まで容易にネットで検索できる時代ではなかった。その意味でも東証外国部は米国をはじめ世界を代表する企業の現状(収益動向⇔株価動向)を知るうえで、便利な市場だった。
書き出したら文字通り、きりがない。が、「ペプシコ」「ダウケミカル」「スリーエム」「P&G」「デュポン」「バイエル」「エクソン」「GE」「IBM」「モトローラ」「GM」「ボルボ」「フォード」「シアーズ・ローバック」「マクドナルド」等々が上場していた。証券会社にも外国部上場企業をウオッチする部門があったから「国際企業」の取材が、兜町を歩くだけで容易だった。
隔世の感という意味では、日本経済新聞・電子版(8月29日)も「日本企業、米国で店頭公開続々 ADR活用、過去最高迫る」としているように日本企業の米国市場登場である。
ADR(米国預託証券、を活かし76社が米国市場で公開)の仕組みや役割については日経・電子版でも触れられているし、他でも縷々紹介されているのでここでは詳細は省くが、「発行株式を裏付けとし、本籍を米国以外に置く企業が米国市場で発行できる有価証券」。
日本企業の第1号はソニーが61年に発行している。私は88年に『ソニーまでも金融機関を持ってしまった!』という1冊を上市した。当時の盛田昭夫会長(元社長)に張り付いて取材した。
その折、ADR発行について表話(書籍記載分)と裏話(オフレコ)を聞いた。盛田氏が亡くなって10月には丸20年になる。禁を破って裏話を記すことをお許し頂く。
「当時の大蔵省は日本企業がADRを発行することを“日本経済の国際化”という観点から、積極的に取り組む姿勢を示していた。うちも米国の深耕を成長の糧と捉えていたから渡りに船で名乗りを挙げた」が表話。
裏話は、「当時のうちの資本金は僅か9億円。他に名乗りを挙げた戦前からの有力企業に比べ月とスッポンほどの開きがあった。それに月末の資金にこそ困ってはいなかったが、研究開発費となると一口で言うと窮していた。これではトランジスターにはじまるヒット製品で、米国市場では他社に比しても先行する製販会社となっていたのに先々の展望が開けない。大幅な増資に踏み切った。当時のうちの株を持つ金融機関は(当時の)三井銀行と日動火災で、合わせても8%程度の持ち株比率。他に手を挙げた企業の金融機関持ち株比率は平均23%。ADRへの入り口として、国内の金融機関をまず受託機関にする必要があった。そこで増資だ。新規発行株の引き受けを頼みに大手と呼ばれていた金融機関を、自らくまなく回った。それが幸いし、(同)東京銀行が受託機関になってくれた。あの時に間髪入れずに大型増資に踏み切れず、金融機関の大株主づくりに土下座外交を躊躇していたらいまのソニーはないだろう」。
東証外国部衰退の一因に「どこにいてもネットを介し海外株式の取引ができる」という時代の変化があるように、ADRを介した日本企業の米国市場登壇にも、それなりの歴史がある。(記事:千葉明・記事一覧を見る)
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