「円の闘い」(2) 1ドル・360円の序曲

2018年10月17日 21:28

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 第二次世界大戦後、円相場は周知のとおり、1ドル・360円で再スタートした。1949年(昭和24年)4月23日に、GHQ(連合国軍総司令部)司令で決まった。第二次大戦をはさみ円は結果的に1ドル・4円から360円へと、文字通り異次元的な下落となったのである。では1ドル・360円をGHQは何を根拠に決めたのか。

【前回は】「円の闘い」(1) “円”の誕生

 その前に、是非とも記しておきたいことがある。詳しくは他に譲るが1944年7月1日に、戦勝国である連合国44カ国の代表団が米国東部ニューハンプシャー州のブレトンウッズで会議を行っている。一口で言えば戦後の国際金融経済体制の主導権を巡る、米英2大国の対決の会議である。結果は「金本位制」を土台とする「IMF・世界銀行設立による金融体制のもとでこそ戦後の世界経済の復興を求めることができる」と主張した米国の圧勝だった。

 戦勝国の大方が極度のインフレ(貨幣通貨下落)に苦しんでいた。「金本位制」を打ち出した米国案に、著名な近代経済学者ジョン・ケインズを団長とする英国に勝機はなかった。米国は世界の盟主となった。私が記しておきたいのはブレトンウッズ会議の2カ月後の、日本の議会の状況である。時の小磯國昭内閣は当然ブレトンウッズ会議を知っていたはずである。が、依然「欲しがりません、勝つまでは」を前面に押し出していた政権は、ブレトンウッズ会議の内容・意味を問われ蔵相の石渡壮太郎はこう答えている。「米英の意図するところは明らかに戦局の苛烈と前途への困難から自国民の目をそらすためであり、反枢軸諸国(反連合国諸国)をして米英の勝利を幻想せしめんとする謀略にあると考える」。言葉を失う悲劇、としか表し方を知らない。

 話を、1ドル・360円が決まる経緯に戻す。

 終戦直後の日本は猛烈なインフレに襲われた。それは日銀券の大量増発に明らか。46年2月の発行残高は1年前の3倍、600億円に達した。鳩山一郎政権は「インフレ総合対策」を打ち出したが、焼け石に水。46年末には発行残高は1000億円に迫り、47年には2200億円に膨れ上がっていた。そんな状況下でGHQの対日総司令官ダグラス・マッカーサーは、特別経済顧問として派遣されたジョゼフ・ドッジが創案した「経済安定の9原則」を首相の吉田茂に「実施」を司令したのである。9原則の逐一については省くが、第6項目にこうある。

 『外国貿易統制事務を改善し現在の外国為替騰勢を強化し、これらの機能を日本側機関に引き継いでさしつかえなきに至るよう意を用いること』。翻訳されたものであろうが、いまも昔も「公的文章の文言・表現」の難度の高さには閉口させられる。噛み砕けばこういうことであろう。

「日本は宿命的に資源物資に乏しい。外貨を獲得し資源を購入し国内産業の復興・育成を進め輸出振興による経済再建を実現するためには、為替レートの安定は絶対条件。そのための施策が不可欠」。

 もっともな話である。さてでは、どうして1ドル・360円が「絶対条件」として決められたのか。(敬称、略)(記事:千葉明・記事一覧を見る

【続きは】「円の闘い」(3) 1ドル・360円の論拠!?

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