「銀河鉄道の夜」は現実と非現実の狭間を駆使して生と死を問いかける

2018年3月22日 10:25

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銀河鉄道の夜 は現実と非現実の狭間を駆使して生と死を問いかける

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 銀河鉄道の夜 は、宮沢賢治原作童話の長編アニメ化のコラムです。少し長くなりますが、あらすじを書き出した上で、この作品から感じたことを書き述べて行きたいと思います。

Contents
1 銀河鉄道の夜 のあらすじ1.1 ジョバンニの不安な日常1.2 銀河鉄道の旅路で交わした約束1.3 カンパルネラの死1.4 不安を凌駕する生きる意味を手に入れたジョバンニ2 考察2.1 この「銀河鉄道の夜」というアニメの構成2.2 両親不在の日々と自我の危機2.3 日常から混沌とした非日常の世界へ2.4 生と死2.5 現実への回帰と自我の再確立3 内面が生み出す非日常からの創造性

■銀河鉄道の夜 のあらすじ


ジョバンニの不安な日常
 とある町の学校で、銀河についての授業を終えたジョバンニは活版印刷のアルバイトに立ち寄り、買い物を済ませて病床の母がいる自宅へ戻り、夕食を済ませた後、今日は町の星祭の日なので帰りに観てくると母に言い残し、配達されていなかった牛乳を取りに牛乳店へ向う。

 ジョバンニは漁師である父の帰宅がいつなのか不明なのが心配だった。夜道を進み、牛乳店にたどり着くが店員は不在で、町の星祭りに行っても級友のザネリにジョバンニの父は帰ってこないとからかわれ、孤立感にとらわれ、夜の町外れに向って走り出す

 森を抜け、所在無さげに丘に寝そべり、夜空の銀河を眺めていると、強い光源に包まれて、巨大な蒸気機関車が現れ、その後ジョバンニは銀河鉄道の列車に乗っているのだった。

 座席には級友のカンパルネラが座っており二人の長い銀河鉄道の旅が始まる。

銀河鉄道の旅路で交わした約束
 章立てで物語は進み、銀河鉄道の旅の途中に様々な人物が登場するが割愛する。

 やがて、賛美歌や客船の沈没のエピソードなど宗教的な死生観を漂わせて銀河鉄道列車はサザンクロス駅に到着する。

 そこで現れた登場人物達はあらかた下車するのだがジョバンニとカンパルネラは乗車したまま列車は出発する。

 しかしながら、カンパルネラは、ジョバンニと「ぼく達はどこまでも一緒だね」という約束を交わしておきながらジョバンニ別れを告げ、一人列車を降り、ジョバンニは銀河鉄道の列車に取り残される。

 カンパルネラとの別れに慟哭した瞬間、再びジョバンニは強い光源に包まれて丘の草むらに横たわっていて目が覚めたことに気がつくのだった。

カンパルネラの死
 ジョバンニは牛乳店へ牛乳を取りに行くことを思い出し、牛乳店へ来た道を戻って、今日に配達されなかった牛乳を受け取り、夕食をまだ摂っていない母のいる自宅へ帰ろうとするが、途中、クラスメイトからカンパルネラが川に入り行方不明であることを知らされる。川岸へ向うとカンパルネラの父が居て、もうカンパルネラが助からないことを警察官と話していた。

 カンパルネラの父はジョバンニに気づき、ジョバンニの父と連絡を取り合い、もう既にジョバンニの父が帰宅しているはずだと教え、明日の放課後、みんなとカンパルネラの家へ遊びに来るように誘われる。

不安を凌駕する生きる意味を手に入れたジョバンニ
 ジョバンニは銀河鉄道の旅に思いを馳せ、さそりの火の女の子の話を思い出し、

 「みんなの幸福のためなら、自分の身が百遍焼かれてもかまわない」

 ということがジョバンニの生きる意味の原点だと悟り、それを果たすように生きることが、今は居ないカンパルネラとの銀河鉄道での約束だと理解し、帰宅している父と病床の母が待っている自宅へ牛乳を持って力強く走るのだった。

■考察


銀河鉄道の夜
この「銀河鉄道の夜」というアニメの構成
 この長編アニメを観る限りの構成は、日々の暮らしに疲弊気味で孤立したジョバンニが牛乳を取りに夜の町中へ出かけて、夢の中でカンパルネラと共に銀河鉄道の客車の中で様々な人々と出会う中で生きる意味を見つけ出し、夢から覚めたあとカンパルネラの死を通してジョバンニ自身の生きる意味を見出して帰路を辿る造りになっている。

両親不在の日々と自我の危機
 背景としてジョバンニは、北方へ漁に出た父の行方が分からず、家では病床に臥せっている母が心配で、半ば途方にくれたように学校へ通い、帰りにアルバイトへ通って、家計の足しに賃金で自分の食事をまかなっている日々である。
少年特有の快活さもなく、級友から何度も、帰ってこないジョバンニの父は収監されたとからかわれて、疎外感に苛まれてだんだんと自分と言う現実を見失っていく。

日常から混沌とした非日常の世界へ
 それはどういうことかと言うと、生きているようで死んでいる、あるいは死んでいるようで生きているという状態にジョバンニが置かれるのである。

 銀河鉄道の夜というタイトルどおり、ジョバンニが乗った銀河鉄道は、ジョバンニの見た夢の世界でもあるが、同時に、幽霊のようなジョバンニの生きていない部分の死の世界でもある。そしてジョバンニの完全な死の世界でもない代わりに生きているともいいがたい夢幻の世界なのである。

生と死
 現代の風潮において人間の生と死の区別はかなりはっきりしている。それは互いに相容れないものとして厳然と峻別されており、生は有限の中で受け継ぐものではあるが、死は無限でありながら何も存在しないという考え方の唯物論的死生観がある。では現実としての生と死の境界にはなにがあるかの問いに夢幻の世界というものを配置している芸術家や創作者は多いと思われるがどうだろうか。

現実への回帰と自我の再確立
 そのジョバンニの夢幻の世界の中でカンパルネラと共に旅を進めるうちに、乗り合わせた人物の死から生きる意味を問いかけて“みんなの幸福のため”という答えを導き出し、カンパルネラと別れがやってきて夢幻の世界から現実の生の世界へ立ち戻ったジョバンニは、カンパルネラが川に流されたという現実の死を突きつけられる。

 そして、カンパルネラの現実の死から、ジョバンニは夢幻の世界での“みんなの幸福のため”に、自身の死を恐れないことが、現実に生きるということの意味の本質であることを悟り、力強く生きることを自身の中で見出したジョバンニは見失いかけていた自分と言う現実を取り戻すのである。

■内面が生み出す非日常からの創造性


銀河鉄道の夜

 夢幻や夢と呼ばれるモチーフはアニメや文芸の中で長らく現実と非現実の狭間を独占しているのではないだろうか。時には非現実が現実を侵食して、誰も知らない現実の未来を映し出すメディアの手段として用いられている事例も多いように思われる。

 原作者および製作者は、アニメ銀河鉄道の夜を通じて、現実と非現実の狭間を駆使して生と死を問いかけ、主人公を通して生きる意味を見つけ出し、その尊さや強さを描いて見せたのである。

 文章:kyouei-drachan

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(あにぶ編集部/あにぶ編集部)

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