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オリンパス社長解任と日本企業のグローバル経営(2)(2/2)
■個人の責任
ウッドフォード前社長も約30年オリンパスでたたき上げ、ここ最近は上級経営陣の一角を連ねていたのだ。問題意識が無かったわけではあるまい。
事実、ウッドフォード前社長のインタビューからも、特に英国の医療機器会社の買収価格については高かったと思っていたことが触れられている。
とはいえ、日本であれ欧米であれ、直接自分の業務職掌にない件についてはよほどのことが無い限り突っ込んだ口を出すことはないのは事実だ。ウッドフォード社長も、このまま社長にならなかったとしたら今回の経緯を深く調査するような意思決定をしなかったのではないかと、私は考える。
こうして考えると、今回の一連の経緯で皮肉をこめて2重の意味で「残念」なことがある。
2つとも菊川前会長の意思決定だ。1つは、自分自身が損失隠しに関わっていたことを隠してウッドフォード社長に引き継いだこと。もう1つは、菊川前会長の西洋人一般の「個人の責任」についての理解の欠如だ。この2つ目の点を少し掘り下げてみよう。
一般に西洋人が個人の責任を問われるとき、日本企業のような同質性に基づいた、集団の規範による価値よりは、自分の信念で意思決定をする確率が多い。
その理由は2つだ。価値観として「個人」に焦点が当たるキリスト教文化が1つ。もう1つはある程度の役職で実績を積むことで、例えオリンパス一社だけで30年近くであってもむしろ個人としての市場価値が上がるという労働市場があること。この2つを満たすウッドフォード社長が、不正の可能性を知った際に通常の日本人とは異なる反応を示すことは十分理解できる。
彼は雑誌の記事の英訳を見たことが本件追及のきっかけだったと話している。
一度会社の数字についての疑問が発生した以上、全ての承認事項に個人的な責任が発生するというのが欧米社会での典型的な価値観だ。「署名」という文化に象徴される。ウッドフォード前社長でなくとも、同じような身におかれた場合多くの反応を示すだろう。
その時、ウッドフォード前社長のように徹底的に追及に走るかどうかは欧米社会のビジネスマンとしては程度の差はあると思う。ただし、自分が不正(の可能性)を知ってしまった以上、自分が「署名」すべき財務諸表、それも公開企業の、についての疑念が晴れない限り、半端な覚悟では署名できない。それが普通の欧米社会での価値観だ。
日本人はよく契約に関して寛容とされる。それは、社会的に契約について書かれた文言よりは、当事者同士の話し合いを優先する文化があるからだ。西洋にはそれは無いと言っておこう。お互いに信頼できるからこそ、細かい文書に残しておき、その内容について双方に署名するということができる。署名や信頼ということについての根本的な価値観の差である。
■今回の考察について
日本企業には多様性が必要だ。国籍、言語、宗教、信条、性別等様々な面で多様な中でお互いに切磋琢磨することで、イノベーションが起きる。それだけでなく、企業統治の概念からも、「本当に会社にとって、社員にとって、顧客にとって、株主にとって」よい意思決定をしているのかを多面的に判断することができる。多様性(ダイバーシティ)は、イコール女性活用だと思っているような企業は、その根本的な必要性を考え直した方がよい。グローバル化とは、すなわちダイバーシティのマネジメントだ。
多様性の中で意思決定するためには、その中で通用する強い意志と信念を、一人ひとりが持つ必要がある。その意思と信念から「責任を果たす」ということへの覚悟が生じる。
若干脱線するが、グローバル企業で、役員級以上の人材が多額の報酬をもらっていることに対して、よく日本では批判があるようだ。
私は、そうした批判には反対だ。多くの上級管理職は、戦場の中で自分の意思決定一つで多くの資源を配分する責任を負っている。いつ何時その責任を問われても、きっちり説明できることが必要とされている(それがアカウンタビリティだ)。
こうした条件を満たしていると考えられる人間は、それなりの仕事をしている。
今回の結論:真のグローバル経営をするためには、同質性を排除する必要がある。その中で、一人一人が、職務において持っている責任に真摯に向き合う必要がある。
また、多くの日本企業が自社社員の日本人だけを海外赴任させたり、英語教育をさせたりして「グローバル化のための戦力」を作っているようだ。大きな間違いである。
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