細川・クリントンの物別れで淡々と正論を吐いた:牛尾治朗氏の死を改めて悼む

2023年6月28日 08:22

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 ウシオ電機の創業者:牛尾治朗氏(元経済同友会代表幹事)が逝去した。思い出多い御仁だった。拙著に『円闘(日本実業出版社刊)』がある。戦後の円の歴史を扱った1冊だが、牛尾氏にもご登場頂いている。

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 円が変動相場制に移行後初めて対米$で100円割れとなったのは、1994年6月下旬だった。まずニューヨーク外為市場で21日、99円85銭まで円が買われた。そして27日に東京外為市場で、99円50銭を付けた。

 円高の背景は、92年後半のジョージ・ブッシュ(共和党)とビル・クリントン(民主党)の大統領選挙に求められる。時間の経過とともに、「変化」を前面に押し立てていたクリントンの優勢が色濃くなっていった。

 クリントンが掲げていた最重点政策の1つが、『NAFTA(北米自由貿易協定)』の実現だった。NAFTA実現に関しては選挙期間中、「NAFTAには、日本を除くアジア諸国の参加を求めることも視野に入れている」とまで言い放った。外為市場では「クリントン大統領実現で、日本の黒字叩きが加速する」とし、ジリジリと円高が進んで行った。

 そして93年4月、クリントンは時の首相:宮澤喜一にいわゆる「日米包括経済協議」(日米間の貿易不均衡是正のための協議会)の設立で押し切った。

 がこの年の7月の衆議院議員選挙で、自民党の分裂を契機に55年体制(自民党単独政権)は崩壊した。複数の新党が生まれた。そして旧保守体制の対立軸として、非自民・非共産連立政権が生まれた。代表(総理)の座に就いたのが、日本新党党首の細川護熙だった。

 クリントンは細川に対し日米包括経済協議の詰めとして、「(日本)市場への外国製品の参入度合いをはかるための『客観基準』の導入」を要請した。

 だが協議後の共同記者会見で「中身のない合意なら、ないほうがましだ」と言い放ったクリントンに対し「玉虫色の決着は誤解の種」と返した細川は、こうも言い切った。「出来ないことは出来ないと率直に認め合うのが、大人の関係だ」。

 事実上の交渉決裂。直後から円高が進んだ。国内世論は割れた。

 記者会見の直後、当時ウシオ電機会長だった牛尾氏に意見を求めた。「会談に先立ち大統領経済補佐官やUSR副代表など大物が来日した。彼らは『今回の会談はこれまでの日米関係を総括するための1つの区切りだ。同時に新しい関係を構築するための幕開けの会談だ』と口を揃えていた。日本側もその当たりは百も承知で臨んだはずなのに・・・。

 いま日本が肝に銘じておくべきなのは、成熟化とグローバル化だ。成熟化した日本経済が生産型から消費型にシフトするのは不可避の歴史だ。並行して市場の開放に象徴されるグローバル化も徹底して進めなくてはならい。でなければ日本は世界中を敵にまわす。

 グローバル化を促すために大事なのは、内政より外政が優先するということだ。世界の要請をのむ。そのうえでその負担をどうやって賄っていくかを国内で検討する。これがいま必要な政治だ。なのに・・・

 相手がある提案をしてきた。それに乗れないと言うのなら対案、例えば3年以内に国際収支の黒字額をGDPの2%以内に納める努力をすると言い、努力するのが大人の関係というものだ。ただただNoでは、単なる駄々っ子としか言いようがない・・・」(参考文献:円闘)

 改めて、牛尾治朗氏の死を悼む。(記事:千葉明・記事一覧を見る

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