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5年先まで使える広告代理店的プレゼンテーション術 (55)
映画「ファーザー」を観てきた。第一印象、非常にタイトな作品。極めて尖鋭的だった。認知症に侵され、正常なコミュニケーションが取れない父アンソニーと、献身的に介護しつつも新たな自分の人生を踏み出そうとする娘アンと、その周辺の人間たちとの数カ月間を描いている。
【前回は】5年先まで使える広告代理店的プレゼンテーション術 (54)
プロットは普通だが、比類なき脚本だ。グランドホテル形式(1つの場所で複数人物が物語を展開する表現技巧)で、記憶と時間が迷走する認知症患者アンソニーの視点で物語を重層的に構築している。
映画化にしては地味な素材である「認知症」を使って、どのように観客を作品に接着し、没入させるのか。この脚本には2つのミッションがあったと私は推察する。
1つは、観客に認知症を「追体験」させること。「自分ごと化」が眼目にある。高頻度の物忘れ、物盗られ妄想、執拗に繰り返される質問、感情失禁といった症状からアンソニーの認知症は「アルツハイマー型」、幻視を加味すると「混合型認知症」だろう。アンソニー・ホプキンスの「連続する悲痛な思い違い」演技と、生き物のように切り替わっていく「部屋の様子(美術セット)」と、「不安を煽るBGM」が観る者を混乱させ、「認知症遊園地」のアトラクションと言って余りある無秩序な迷宮に沼落ちさせていく。
通常、ドラマとは、主人公が「対立と葛藤」を乗り越え、「変化・成長」する姿を描く。そこに観客は共感し、没入していく。ところが、本作は不治の認知症患者が主人公。奇異な言動が主行動になるため、変化・成長を描けない。そこで観客を作品に没入させる(ヒットさせる)ためには、アンソニーと観客の意識をアジャストさせ、共に作品中を泳がせる必要があったのではないか。異常なアンソニーに対して不信感や不安感を募らせる構造にし、次第に彼の安否や結末を気遣う方向へと観客の感情が向かっていく設計となっている。
■(57)異才は、どのような素材でも、それを芸術たらしめることができる
2つめは、認知症という素材で「芸術作品」にまで昇華させること。映画芸術としての品質・品格を上げる努力は、たとえ、それが興行的戦略でなくとも、観客の知的優越感や達成感をくすぐる結果につながる。
緻密な設計図である脚本を基に、美術担当は技術を駆使してアンソニーの脳内で起こる空間移動や思い違いの画を描き出す。それを編集技術で現実の画と溶接し、アンソニーの「情報錯綜」を作り出している。6人の役者だけで織りなす室内劇という「制限」の下だからこそ、シュールなエピソードが生まれ、それらを組み合わせることで、自壊していくアンソニーをハードに描破することに成功しているのだ。
アンソニーがアンの2人のパートナーにキレられて殴られるシーン。病室に横たわる瀕死の次女ルーシーが「ダッド…」とアンソニーに声を掛けるシーン。ルーシーに酷似したヘルパー「ローラ」の代わりに見知らぬ女性が訪れるシーン。現在か、過去か。事実か、妄想か。時間軸を失ったアンソニーの脳内で起こる「情報錯綜」の数々。観る者を無秩序の追体験に陥らせるこれらの高度なカッティングこそ、認知症ドラマをアートたらしめた所以である。
この映画の特筆すべき点は、ドキュメンタリー作品でも描かれない「家族と介護士の本音」を吐露させていること。5稿で仕上げた脚本は、彼らへの考察が圧倒的にタイト。偽善も虚偽もない。私が知る現実と微塵も違いがないのだ。
認知症に不知な層には情報価値の高い教材であり、そして、覚悟して観てほしい傑作である。認知症患者のごく当たり前の日常を芸術に昇華させる難しさと、その才能の壁をこの映画は教えてくれる。
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