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大学受験のスケジュールが立たない! そんな今だから「添削」の意義について考える
■添削は究極のディープラーニング
17日、萩生田文部科学相省が、今年の大学入試の総合型選抜(旧AO入試)と学校推薦型選抜(旧推薦入試)について、「募集の時期を遅らせる必要がある」と見解を述べた。夏に行われる総合型、秋に行われる学校推薦型、そして冬の一般入試と続くわけだが、年間のスケジュールが立てられず、困惑する受験生も多いだろう。
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ただでさえ忙しい大学受験生が情報収集に追われ、いたずらに時間が過ぎていくのは本当に時間がもったいない。そこで、あらためて「小論文の添削」について考えたい。受験で結局、小論文使わなかった・・・となっても、その力は一般入試で評論の読解力となっている。
筆者自身、大学受験生の小論文を添削して15年になるが、昨年度の入試を終えて、あらためて添削とは「深い学びの場」だと痛感している。添削担当者は生徒の考え方をコピーし、生徒は添削担当者の考え方をコピーしていく。そこには深いコミュニケーションがある。これこそが昨今、喧伝されているディープラーニングではないか。
■生徒の顔はわからないが、アタマの中身はよく知っている
現在はネット上で答案を簡単にやりとりできるし、スカイプやズームで手軽に対面できる。しかし、15年前はそのような環境はまだ整っておらず、手紙で答案をやりとりしていた。
「この生徒は、こう考えてこのような解答を出したんだな…」生徒の頭の中を類推しながら添削を進めていく。恐山のイタコの口寄せではないが、生徒の思考が添削担当者に憑依(ひょうい)する。
生徒は生徒で「先生はこう考えて…」そこには深い深い思考の対話がある。だから、添削担当者は、添削する生徒のアタマの中について誰よりも知っている。だが、悲しいことに、「顔」を知らない。
一通り入試の結果が出て卒業式が終わるころ、東京から訪ねていける生徒の学校は訪ねるようにしていた。担任の先生と情報共有し、お互いにその後の指導にいかすためだ。
「歯が立たなくても、意地でも反論していくようなアグレッシブな生徒さんでしたね」「えっ、学校ではおとなしくてまじめな生徒でしたよ」という具合に、学校の教師や保護者とは全く違う側面を見ていた(見せてくれた)ことに気づかされる。ここにこそ添削指導の面白みがある。
■ディスプレイ学習から対話学習へ
筆者自身が添削を生業(なりわい)としているから言うわけではない。在宅学習でディスプレイばかり見ている受験生は、添削という地味なメディアについて考えてみてはいかがだろう。添削指導とは、北斗神拳の奥義伝承みたいな、一子相伝的なところがある。その生徒のためだけにこの指導、ということがよくある。
生徒は、自分の考えをアウトプットし、第三者の思考という鏡に映してみる。添削担当者はその生徒の思考の傾向をふまえて、より良い解答法へ導いていく。そこにはディスプレイのような一面的な学習ではない、双方向の思考のコミュニケーションがある。ぐるぐる堂々巡りをしているような気もするだろうが、実は、時間の流れの中で螺旋(らせん)階段を上ってきたことに、合格してから気づくだろう。(記事:大学受験国語のフットプリンツ 谷村長敬・記事一覧を見る)
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