ソニーに金融機関(ソニー生命)をもたらした故盛田昭夫の執念 (3)

2018年9月7日 09:20

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 マクノートンの来訪を受け、交わした世間話のなかで盛田は冗談半分でこう語りかけた。「ソニーは生命保険の素人だがマーケティングはプロ中のプロだ。日本市場のマーケティングには自信を持っている。お前さんのところが日本に進出してくるときソニーは役立つ存在だよ」。

【前回は】ソニーに金融機関(ソニー生命)をもたらした故盛田昭夫の執念 (2)

 盛田も「頭の片隅に外資との合弁なら生保事業に乗り出せるという思いはあった」と素直に認めつつも、冗談半分にならざるをえなかった事情を「プルデンシャルは当時、アメリカの巨大なドメスティックな生保に止まっていた。海外進出云々について調べたけどこれっぽっちの匂いすらなかった」と説明した。

 が、事件!?はそれから10分余り後に起こった。

 「そろそろ引き上げる」というマクノートン一行を盛田はエレベーターまで送り自室に戻った。机上にはマクノートンが滞在しているホテルの名前・ルームナンバーを記したメモ用紙が置かれていた。「明日はもう帰るというからなにか土産の一つも贈っておこう」と思って残したメモだった。女性秘書に手配を指示しようとしたまさにその時だった。マクノートンを車まで送って戻ったスタッフがこう盛田に伝えたのである。
「会長、エレベーターの中でマクノートンさんは同行のスタッフにこんなことを真顔で言っていた。『盛田はさっき我々が日本に出てくるときは力を貸すみたいなことを言っていたが、リップサービスなのだろうな』とです」

 伝えてきたスタッフは「銀行設立プロジェクトチーム」の一員だったことが幸いした。盛田が「とにかく金融機関を持ちたい」と切望していることを重々承知していたからだ。それから約30分後。盛田はマクノートンがホテルに戻る頃合いを見計らい受話器を手にした。

 盛田は「物欲しそうにお願いしてはだめだ。足元を見られるだけだ。しかしマクノートンのエレベーター内の反応をこのまま見逃しては、あまりに逃した魚は大きすぎると直感した」と述懐したが同時にこうも言った。「冷静を装っているつもりだったが正直、受話器を持った手のひらは汗でびっしょりだった。いまでもあの時の感触ははっきり記憶している」。

 盛田は電話口のマクノートンに「ほんとを言うと、生命保険事業に大いに興味関心があるのだ」と伝えた。この一言が盛田の長年の夢だった「ソニーの金融機関を持つこと」を叶えさせる現実的な第一歩、号砲となったのである。

 そして1978年早々にマクノートンから直接かつ正式に、「ソニーとのジョイントを前提に日本進出を考えたい。我々は海外進出を決断した。第1号が日本だ。早急にジョイント(合弁企業設立)の合同チームを立ち上げたい」とする申し入れが盛田にもたらされたのである。

 前記の「西武オールステート」設立で外資との合弁による新生保設立の風穴は開いていた。翌1979年8月10日「ソニー・プルデンシャル生命保険」は設立された。出資比率はフィフティ・フィフティ。盛田は当時のことを振り返りながらこう語った。

 「ソニーグループを構築したいとかソニーグループの金融機関を持ちたいといった目標と言うか夢と言うか慕いというか、それはどんな事業家にも負けないくらい強かった。また強い慕いを持続しえたからこそ実現しえたのだと確信している。しかしそうした一方で新しいビジネスをものにするためには“不思議な縁”のようなものが深くかかわっているとつくづく思った。マクノートンがフラリ僕のところに訪ねてこなければソニー生命はなかったかもしれない。CBSソニー(現ソニーミュージックエンターテイメント)だってそうだ。我々は音に関するソフト部門への進出の機会をうかがっていた。独自に道を開くことも視野に入れていた。そんな矢先のことだ。CBSと契約関係にあったコロムビアが契約切れの機を控え今後の方向について“独自展開”を軸に論議がされているという情報が飛び込んできた。コロムビアとの提携も考えた。しかし我々が欲していたのはCBSブランドでありCBSのノウハウだった。幸い当時のCBSの会長・社長と僕は個人的に親しくしていたという縁があった。縁がなかったらCBSソニーもなかったかもしれない」。

 さて肝心なソニー・プルデンシャルだが、順調な滑り出しをみせた。一般企業でいう売上高に相当する保険料等収入の推移がそれを如実に物語っている。1982年度を実質上の初年度とし「1983年3月期:1億9600万円」で立ち上がったものが1989年3月期の保険料等収入は139億8600万円に拡大していた。生命保険会社の優劣をはかる代表的な物差しである総資産でも、同様の期間で3倍以上(約140億円)に達している。幾多のメディアが「生保界の新風」といった取り上げ方をした。

 盛田は「時代にも恵まれた」としこう指折り数えた。「日本が世界1の債権大国、要するに金持ち国になる階段を昇っていたわけだし、低金利時代に入り生保を金融商品として見直す気運が盛り上がっていた。そしてライフプランナー(詳細、後述)という独特の営業体制が功を奏した」。

 が、実は記した上昇過程で盛田の言葉を借りれば「予期せぬことだったが、結果とし幸いなことでもあった」出来事が起こったのである。非公式ながらある申し入れが83年にプルデンシャルからソニーに持ち込まれた。盛田は当初、無視を決め込んでいた。だが、遂には当時のプルデンシャルの会長(ロバート・ベッグ)の代理人弁護士が盛田を直接訪れてきた。代理人はまわりくどい言い方だったが要するに「ソニー・プルデンシャルの持ち株を全て売って欲しい」と直談判に赴いてきたのだった。(敬称略)(記事:千葉明・記事一覧を見る

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