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人工頭脳(AI)時代に人間翻訳は生き残れるか?:第十回 AI人工頭脳に限界あり (最終回)
AlphaGoの脅威に揺れる囲碁界をマクラに話しを始めた本稿を、それに輪を掛ける将棋界の「惨状」を横目に閉じるとは、なんたる皮肉か。いま中学生棋士で天才と言われる藤井総太四段の話題に時ならぬ花が咲いている将棋界だが、こと人工頭脳の「爪痕」は囲碁界以上に痛々しい。
【前回は】人工頭脳(AI)時代に人間翻訳は生き残れるか?:第九回 人の巻 技
それと言うのは、どうやらPONANZAなる将棋ソフトは斯界の頂点(佐藤天彦名人に二番完勝)を極め、ソフトの開発者たちをして「もう生身の将棋打ちに敵はいない」と言わしめているからだ。さらに哀れむべきは、プロ棋士の生の対局をPCに「勝勢評価」をさせて悦にいるに至っては、主客転倒も極まった感がある。囲碁界の明日が見えるようで、思うだに総毛立つ。
戯れ言はさておき、AI人工頭脳の専横(?)振りを見るにつけ、曲がりなりにもの書き、翻訳家として駄飯を食む筆者の思いは複雑だ。定型の情報があれば充分という巷の陳腐な通訳ギャジェットは別にして、本来の翻訳の世界ももやは埒外ではないからだ。アウトソーシングの現場では、クライアントは割高な翻訳よりも先ずはAI翻訳に掛けた原稿の校正を依頼してコストダウンを図るケースが増えているという。この問題の権威、東大の松尾豊氏によれば、現に英語の学術論文などはdeep-learning AIを介して読まれているというから、並みの翻訳ものなら大いに理が通っている。
精度と確度 Precision and Accuracy
ならばAI人工頭脳でよしとする条件は、と問えば、どうやらそれは自明なようだ。即、精度である。精度に信頼できれば、その翻訳物は受け入れられるということだ。街中の会話でAI人工頭脳の助けを借りて満足する衆は掌中のギャジェットで充分だし、論文にしても論旨が間違いなく通じればAIで充分、余分なお足を投じて人間翻訳を頼むことはない道理だ。となると、AIの精度が高く費用が低ければ、費用で妥協しない限り人間翻訳家に勝ち目はないのも道理となる。
だが、ここで筆者はあえて精度と確度に一線を劃し、両者は翻訳における意味は似て非なるものだ、という点を強調したい。創意豊かな本来の翻訳では、筆者は人間翻訳の優位は厳として揺るがぬと信じるからだ。
それはそういうことだ。
およそ「精度」とはデータの緻密さで、「精度を問う」とは言わば方眼紙上である一点を定めるときその目盛りの緻密如何を求める意味がある。換言すれば、その一点を求めるに算盤よりPCを求めるが如きだ。
小町娘の手から
だが、もし方眼紙なしにその一点を定められる「知恵」があったらとしたら、その知恵は精度を問われることなく「問題点」を図星したことになるのではないか?この知恵を「人知」、方眼紙をAI人工頭脳と置き換えれば、筆者の論旨を推し量り頂けまいか。
屁理屈と難じられる前に、同じ一本のサイダーを手に入れるのに、コインを投げ入れて「言語ディスペンサー」から抜き出すか、最寄りの酒屋に立ち寄り兼ねて評判の小町娘の手からウインクを添えた冷えた一本を受けとるか、の感覚的な違いは単なる精度を遙かに超える。看板娘の笑顔、手ずから受け取る安心感など、紛れもなく一本のサイダーを手に入れたという「確度」accuracy は「言語ディスペンサー」の比ではない。
それこそが屁理屈だ、と詰め寄られる向きには、精度 precision の高きが必ずしも確度 accuracy 高からぬ喩えをもう一つご披露したい。貧乏極まれりとの状況を「赤貧」という。それは細かい数字を並べても言葉の余韻までは説明し尽くせない。赤貧という言葉の発するメッセージは数字では語れないということで、例えばマイナスいくらと書いても、その数字は赤貧の語感には遂に及ばないと思うが、如何?。
人間翻訳に光りあれ
そもそも文学は人間の情感の表徴で、字間行間に流れる心象はおよそデータの埒外にあり、赤貧の如き例は絶え間がない。ならば、その翻訳にデータ処理が介在しようがない、としたものだ。
技術に疎い筆者の筆に掛かって、専門家の諸賢には聞くに堪えない語りだったと思うが、人工知能如きに人知が冒されてなるものか、といきり立つ老いたる翻訳家の繰り言と平にご容赦頂きたい。
閑話休題
どうだろうか。前稿で触れた多彩な日本語の一人称代名詞を人工頭脳に選り取り見取りをさせて見ては?知のみならず情意にも通じるに至ったというAI人工頭脳に原文を通読をさせ、学習させた上で周到な一人称単数を選ばせてみる.....。人間ならどう見ても「ここは’おれっちに限らあ!’がピッタリだ」という人物を「せっしゃ’に限る!」と選び損なう確率や如何に?!
わが愛する喜劇王チャップリンが「モダンタイムズ」で描いた機械に踊らされる人間の哀歓は、さまざまな姿で現代に投影されている。たかが囲碁将棋の世界じゃないか、と虚勢を張るのは知恵がない。人間生活のある断面では明らかに「機械」に場所を奪われた現実はある。が、それは「奪われた」のではなく、あくまでそうすることで「得るものがある」からこそ、人間が両目を開けて (with your eyes wide open) 選んだ道でなければならない。
終わりに
本稿を閉じるにあたり、ひと言書き残したいことがある。
翻訳は生身の人間が生身を語り、生身の言葉で情意を伝える文化だ。それを信条に、筆者は半世紀に亘り生業として携わってきた。翻訳文化の実りは樹上の「生の果実」であり、包丁の切れ味も鮮やかな「刺身」の如きものだ。翻訳家たるもの、まずは「人手(ひとで)」をかけて仕上げ、それを味わう人間「読者」に運び届ける心根が大切だ。「知」即データ処理でこそやむなく譲るとも、「情意」にかけては無機物に微塵も道を空けることがあってはならないし、あろうはずがないと信じたい。
拙稿を長々とご笑読いただき、深くお礼申し上げたい。(了)
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