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人工頭脳(AI)時代に人間翻訳は生き残れるか?:第五回 兵法のみち、大工に喩えたる《五輪書》
ふと思うところがあって、二刀流話の「まくら」に、言葉と文化について、もうひとくさり聞いて頂けまいか。前回の古池話を思い起こして欲しい。前稿で筆者は、 a pond のままでは芭蕉は生きない、池があってa frogが飛び込む様子を写実しても甲斐がないが、それにはじつは奥深い想いがあって外つ国人に判って貰えるような翻訳は「反逆」だとまで書いたのだが、じつはこの考えは球の一面、否一点を指摘したに過ぎない。
洋の東西
古池と蛙、水音と静けさが創る幽玄に遊ぶ文化が俳諧であり、それは日本人ならではの境地だと決めつけるのは、本音を言えば乱暴な独断だからだ。俳句の世界の幽玄は外つ国人には窺い知れぬものだ、と嘯(うそぶ)くのは暴論に近いといいたいのだ。
意のある読者諸賢はE.E.Cummingsなる米詩人をご存知かも知れない。この詩人の傑作の一つ "l(a" は、こんな異様な姿をしている:−
l(a
le
af
fa
ll
s)
one
l
iness
水平に並べれば、あるいはl(a leaf falls)oneliness となりa leaf fallsとlonelinessが並列し、 またはl(a le af fa ll s) one l iness とすれば1、one、i+nessと「ひとつ」という概念(singularity)が積み重なる、などの細工が施されている。古池と同じ座標で観ることはできぬまでも、写実を装ってなにやら内なるものを滲ませる所作はE.E.Cummingsの作風にもあると思うのだが、如何だろうか。言葉に滲む文化の趣きという切り口から、外つ国人もなかなかやるではないか、ということだ。
芭蕉の古池さながら、このE.E.Cummingsの詩も文字面(もじづら)の翻訳では手に負えない「内心」を探る世界のものだ。寡聞にして筆者はこの詩の和訳を知らない。ましてや、AI翻訳によるそれは知らない。本稿を書きながら、筆者はあえてそれを確かめずに、「AIが "l(a"をどう和訳するか) 」のスリルを愉しんでいる。
閑話休題
1970年前後だからかなり前になるが、「日本人とユダヤ人」という本が書かれた。一年間に21版を重ねた名著で300万部を売り上げた伝説的な本だ。イザヤ・ベンダサンという著者名から翻訳書かと話題を呼んだが、いまは出版元の山本書店の店主、山本七平の書き物とされている。ここで五木寛之の「蒼ざめた馬」のpale horse に拘った部分が興味深い。黙示録に顕れるこの馬は「嵐のような鼻息を吹き出して、突進してゆく青みがかった緑の馬」で、日本の読者好みのムード溢れる「蒼ざめた馬」ではない。山本は、誤訳としながらも「蒼ざめた…」は聖書に馴染まぬ日本の読者の印象を慮(おもんばか)れば、そのムード性は、一転、黙示録に疎い訳者の「すばらしき誤訳」かもしれないと言うのだ。おもしろい。誤訳にして誤訳ならぬ翻訳の妙(たえ)なる世界、翻訳は所詮言葉の差し替えでなく、文化の移植だという話だ。
この山本七平の指摘は、いやしくも翻訳に携わる者は文化の何たるかを知って掛からねばならないという示唆であり、折に翻訳は読むものの意識がその価値を左右しかねないとの暗示でもある。そんな斟酌をAIはしようか?
文化を翻訳する、とは?
この話、油断すると取り留めのつかぬ広がりを見せかねない。(剣呑剣呑)論点を収斂させよう。芭蕉にせよE.E.Cummingsにせよ、韻文ではとかく写実的な文字を介して内なる思い、いわば「内心」を伝えようとする。翻訳者は原作の文字面を前にして、「あるプロセス」を介して作者の「内心」をreproduceしようとする、つまり「内心」の「相」phaseを移動しようとする。「あるプロセス」とは即、翻訳のことで、それが文字面のあけすけな解釈に止まるか、それとも文字面の背面に隠れた「内心」を探り当てるか、が焦点だ。さらに言えば、deep-learning を纏ったAI翻訳は「内心」をreproduceする能力を獲得できるのか、ということだ。ずばり、「内心」のreproductionで人工頭脳は人間を凌げるか。それとも、やはりそれは人知の独壇場だろうか、という話だ。
さて、翻訳におけるAIと人間の鬩(せめ)ぎ合いについて、この辺りで筆者の本音をお聴きいただけないだろうか。傘寿にして筆者は、ようやく言葉の威力に気付くようになった。生業の翻訳という作業で言葉を操ることの意味が身にしみるようになった。人間業とはよく言ったもので、翻訳とは生身の魚を扱うような、とても器械には任せられない、思い入れと手捌きが命の作業だと言うことだ。
本稿を書きながら筆者は、囲碁を破ったAIは咄嗟に翻訳をも席巻し去るのでは、と懸念もした。deep-learningという鵺(ぬえ)はウエブスターを丸ごと呑み込み、生半可な翻訳家など踏みにじりかねまい、とも思った。だが、この稿を書きながら筆者は、それはなかろうと思うようになっている。翻訳に当たる人間にして、「内心」を掘り起こす気概に溢れ異文化を紡ぎ合わせる業を身につければ、「AI何のことやある」と思えるようになっているのだ。AIには手に負えまい前掲のE.E.Cummingsも、人間翻訳なら彼の「内心」のせめて輪郭ほどは彫りだせるかも知れない、と。
侍は大工か?
宮本武蔵は「五輪の書」で侍を大工に喩える。道具を調え、ものの構造に通じ、組み上げる蘊蓄に触れながら、武器である刀の処理操作のあり様を語る。筆者は武蔵の二刀を翻訳における二つの言語に喩えて、「二刀流翻訳術、グローバルエイジのスキル」という一冊をキンドルから上梓している。そこで筆者は、人間翻訳がAIを迎え撃つに備えるべき道具は何かを考え、それを如何に磨き深化させるか、を語っている。五輪の書に肖(あやか)れば、翻訳は兵法であり、翻訳技術のさまざまはあたかも大工の道具であり、蘊蓄(うんちく)は「切れ味、趣向」に喩えられよう。
人間翻訳の活路
人工知能研究者の松尾豊氏によれば、GoogleやFacebookのAI翻訳はすでにアメリカで昨年9月、日本では12月にはdeep-learning系が採用されており、学術論文の世界では、大方はすでにAI翻訳で読み慣わすようになっているという。つまり、データ専一の翻訳では、すでに人間はAIの後塵を拝しているということらしいのだ。ならば、いたずらに情報量が要(かなめ)の無機的な翻訳をかなぐり捨てて、生体反応の豊かな文字文化を一方から他方へ有機的に「移植する」ところに敢えて偏重するところに人間翻訳の活路があるのではなかろうか。
まくらと称して、横道に思わぬ紙幅を費やしたことをお詫びしたい。次稿は、文化の「移植」という切り口から広義の翻訳である「翻案」という手法について、お話ししたい。
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