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「昔は良かった」という話を冷静に考えると
ここ最近、「昔は良かった」というような話を聞く機会が増えています。そういうことを言う年代の人が周りに多いからだと思います。
だいたいが私と同世代近くの40代後半以上から、多くはやはり60代以上の人からそういう話を聞きます。内容は社会全体のことや会社のこと、人間の振る舞いに関するようなことです。その世代よりも若い人では、そういうことを言う人はほとんどなく、仮に話があっても個人的な懐かしみのようなものです。
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先日も「今の人間関係は希薄で昔は良かった」という人がいました。昔の方が直接会って言葉を交わすフェイストゥフェイスのコミュニケーションや、電話などで直接肉声を伝えるようなものが多かったのでお互いの関係がもっと濃密だったが、今はメールやLINEなど、相手とのつながりが薄い感じがして味気ないそうです。ダイレクトなつながりが少なく感じ、「昔は良かった」なのだそうです。
こういう話に対して、私はまったく同意できません。
確かに人間関係全般が希薄になっているところはあるかもしれませんが、逆に昔はなかった手段がたくさんできて、昔よりもコミュニケーションがとりやすくなっています。
30年近くさかのぼると、その頃は郵便か電報かファックスか、あとは固定電話か直接会うくらいしか手段がなかった訳ですから、タイミングが合わずにつながりを作る機会を逸していたり、時間や場所の制約を受けていたりしていたはずです。
今はメールやLINEやメッセンジャーも、スカイプやチャットやショートメッセージも、それぞれ使い道が違う様々なコミュニケーション手段があります。昔だったら1週間かかったかもしれない連絡が場合によっては5分で取れますし、いちいち呼び出して直接話すほどでもないことは、メールでもLINEでも事足ります。
テレビ電話が使えますから、遠く離れていても相手の表情を見ながら会話できますし、写真や動画のやり取りも簡単にできますから、情報は伝えやすいはずです。
「昔は良かった」という人は、こういう環境を知らないのかもしれないですし、使う気もないのかもしれませんが、そこにあるのは論理ではなく「感情」によるものしかありません。
以前、人事制度の導入や改訂をしたいくつかの会社で、「前の方がよかった」と言われたことがあります。「制度がない頃の方がよかった」「前の制度の方がよかった」と言います。
その話を聞いていくと、いろいろ理由が並べられますが、論理的な理由があって実際に対応しなければならないものは本当にごく一部だけで、それ以外のほとんどは自分の裁量余地が減ったことに対する不満であったり、慣れていないためにただ「何となくやりづらい」ということだったりしました。
これは、「昔は良かった」という話と同じような、論理というより「感情」にもとづくものです。
「昔は良かった」というたぐいの話を聞いていると、昔のごく一部のことにフォーカスしていて、それが減ったりなくなったりしていることを感覚的、感情的に嘆いていて、今の方がよくなっていることには注目していないことが多いようです。
私も昔をなつかしいと思うことはたくさんありますが、「昔は良かった」ということはあまりありません。冷静に考えればやはり今の方が便利ですし選択肢も多いです。
時間とともになくなってしまうものへの寂しさはありますが、なくなるということはそれに代わるものが出てきているか、そのもの自体が不要になったかということであり、本当に必要なものは何らかの形で残るはずです。
歴史などを通じて昔の出来事に学ぶことは大切ですが、歴史を戻すことは無意味だと思います。「昔は良かった」もあってよいと思いますが、冷静に論理的に考えれば、実はそれほどではないことも多いはずです。やはり過去は変えられないもので、変えられる可能性があるのはこれから先の未来のことだけです。
「昔は良かった」は、私としてはあまり言いたくない言葉です。
※この記事は「会社と社員を円満につなげる人事の話」からの転載となります。元記事はこちら。
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