合掌 プラザ合意時の大蔵省財務官:大場智満氏に聞いたその舞台裏
2023年6月29日 08:53
かつて世話になった方の訃報に相次いで接した。大蔵省の元財務官の大場智満氏が5月11日に逝去されていたことが、明らかになった。読売新聞は6月26日、『元大蔵省財務官の大場智満さんが死去、94歳・・・「プラザ合意」に尽力』とする見出しで訃報を伝えた。「尽力」は事実であるが・・・
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いまさら「プラザ合意とは」「その背景とは」を、記すつもりはない。しかし私は一介の記者として国際金融情報センター理事長に転じた故大場氏から聞いた、プラザ合意への道筋/大場氏も「まさか、あそこまで円高が進むとは・・・」とする驚きの言葉が忘れられない。
プラザ合意に至る具体的な道程の入り口となったのは、1983年に米国のウィリアムズバーグ(バージニア州)で開かれた「先進国首脳会議」だった。「為替相場の見直しが必要ではないか」というフランスのミッテラン大統領(当時)の提案で、(先進10カ国の蔵相・中央銀行総裁会議)の代理会議で「ドル安是正・先進国通貨協調買い」の議論が進められた。代理会議の日本代表が大場氏だった。
以下は、大場氏から聞いた取材結果(出所:円闘)である。
「検討の当初は、米国側は為替市場への協調介入には懐疑的だった。一変したのは85年初めに米国に、ベーカー財務長官・マルフォード財務次官体制が誕生してからだった。これを機にマクロ経済面での政策協調と合わせ、為替市場介入も『不均衡是正』の一方の有力な手段とする方向で、話は概ね順調に進んでいった。
大蔵省にも『円は過小評価されている』という思いがあったから、ある程度の円相場の上昇は当然という考えで検討の場に臨んでいた。
私個人は205円前後まで、つまり15%程度の円上昇はしかたないと考えていた」
こうした2年以上の事前交渉のうえで、プラザ合意は実現されたのだった。
付け加えるなら「合意」の実行について、各国間にこんな「覚え書き」が確認されていたと言われる。<介入期間は最低6週間。規模は180億ドル。日米欧で3分の1ずつ負担する>。この件について大場氏は「・・・・・」と、肯定も否定もしなかった。がその代わりにこう語った。
「あれほど一気にドル安(円高)が進んでしまうとは・・・我々の誰も予想しなかったことは、間違いない」
プラザ合意を舞台裏で演出した各国の通貨マフィアにも、その後の展開は全く予想外だった。85年11月には200円35銭まで上昇した円は翌86年7月には152円90銭に。そして「ドル高修正の目的は達した」とする各国間の「ルーブル合意(87年2月)」後も、88年11月25日の120円80銭まで駆け上がっていった。
周知の通り「円高不況」に晒された相次ぐ公定歩合引き下げで、日本がどんな状況になっていったのかは語らない。(記事:千葉明・記事一覧を見る)