セコムの飯田亮氏に請われて副社長に就任した、大森康彦とはこんな男
2023年1月22日 08:19
警備業界最大手のセコムの創業者:飯田亮氏が、「1月7日に逝去していた」という報に接した。かつて1、2度、これから記す御仁の紹介で取材をする機会を得た。謹んでお悔やみを申し上げる。
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大森康彦。主幹事証券数で山一証券を抜き去り、今日の野村證券の礎を築いた人物である。
大森氏は法人部門統括常務だった田淵節也氏(後の社長)の命で、米国に学んでいた。そんなある日田淵氏から「企業部を立ち上げる。非上場の中堅企業を開拓し上場企業に仕立てる部署だ。お前が部長だ。明日にも帰国しろ」という電話が入った。有無を言わせぬ国際電話だった。
1971年に設立された企業部は、当初こそ数名の小世帯だった。大森氏は後日「ドブ板外交の日々だった」と語ってくれたが、僅か数年で50余名の部署に変身していた。
主幹事証券の数は、着実に増えていった。例えば当時の銀行系列で言えば三和銀行(現、三菱UFJ銀行)色が濃かった日興証券が主幹事になっておかしくないミサワホーム(1971年上場)・イトーヨーカ堂(72年)・日本警備保障(現セコム、74年)が、野村證券の手で株式の公開を実現していった。
そんな実績を積んだ大森氏が、企業部長から海外本部付き部長に転じたのは1975年。そんなタイミングを「待っていた」かのように、セコムの故飯田亮氏は大森氏を直接口説いた。
「おかげで上場は果たせた。だがここで立ち止まっていたのでは、いつまで経っても『ザ・ガードマンの会社』のままだ。システム警備に乗り出したい。手伝ってくれ、いや一緒にやって欲しい」。
この話は大森氏からセコムの本社が新宿にあった時に、聞いた。その折に大森氏は、問わず語りに独り言の様な口調でこうも口にした。
「なんて言うのかな・・・通りすがりの道端に花が咲いている。全く興味を示さず通り過ぎてしまう人もいる。その美しさに心を奪われしゃがみ込み、しばし時を忘れる人もいる。どっちがいい、悪いじゃない。興味・関心の問題だ・・・はっきり言おう。新しい事業、新しい経営というのは僕にとって、あの頃は前後不覚になるぐらい魅力的だった・・・」。
田淵氏にだけは相談をしたという。田淵氏の答えは「君をそんな人間にしたのは、考えてみれば僕だからな・・・」だったという。
大森氏は、こうしてセコム(当時の日本警備保障)の副社長に就任した。「僕には飯田さんのように起業はできない。でも企業部長として新たな成長階段の昇り方は目にし、耳にしてきたから・・・」と言って、頷いたのだった。(記事:千葉明・記事一覧を見る)