三菱・スペースジェット(旧MRJ)が最も恐れるのは「時代のニーズ」(1/3)
2020年2月17日 12:02
三菱重工・スペースジェット(旧MRJ)の初号機納入が6度目の延期となり、また遅れる。2008年3月28日、当時の三菱重工社長であった佃和夫氏が「航空機生産は長年の悲願」と宣言して、2013年には納入開始のスケジュールを目指していた。それが、未だに型式証明が取れず、納入は遅れに遅れている。
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しかし、旅客機開発で遅れが出ることは珍しいことではない。かつてボーイング社が747を開発している時、設計変更を極力抑えるシステム運用で世界を抜き去り、現在の地位を築いている。それほど開発途中での設計変更が必要なのが飛行機なのだ。
現在、スペースジェットが苦しんでいる問題として挙げられているのは、配線のようだ。知られているとおり、現代の飛行機はコンピュータの塊だ。操舵面を動かすにもコンピュータを介している。昔のように人間の感性に頼る部分が大幅に自動制御に置き換わっているのだ。日本初の国産旅客機YS-11と比べると、YS-11が「クラッシックカー」と見えるのだろう。
しかし、スペースジェットにとって一番恐ろしいことは「時間の経過」だ。「そんなの当たり前じゃないか」と言われてしまいそうだが、飛行機開発にとって、「就航」が予想される時期の「時代のニーズ」を正確に先読みし、それに必要な機能を用意することは大事であり、それが出来ていなければ全く商品価値がなくなってしまうのだ。
予想しなければならない時代が、半世紀も先のこともある。B747ジャンボは、開発開始から半世紀後に全盛期を迎えている。
YS-11があまり売れないで終わってしまった真の原因も、「時代のニーズ」を読み間違えてしまったことだ。YS-11が狙っていた市場はDC-3の後継機だった。
YS-11開発の当時、戦前の代表的小型旅客機DC-3は世界の空で多数が現役であったが、同時に後継機争いが始まっていた。太平洋戦争後、占領軍(アメリカなど)から禁止されていた飛行機開発を、1956年ごろから日本国内でも再び行いたいとの機運が起こり、研究が始まっていた。
その当時の常識では、軍用機、つまり輸送機や爆撃機の開発が先行し、そのノウハウを活かして旅客機の開発が後を追うのが通常のことだった。
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