交通事故率、高齢者より10・20代が突出 デイライトや視認性に注目 (下)
2019年5月11日 16:48
■デイタイムランニングライト(デイライト)の必要性
現在ではLEDライトとなり、電気の消耗も少なく、ヘッドライトとは別に「デイタイムランニングライト(デイライト)」を別に装備している車も増えた。このライトは、夜間に自分の視野を確保するための「ヘッドライト」とは違い、対向車、あるいは歩行者から「自車を確認しやすくする」ためのライトであると認識したほうが良い。現在では光量が1440カンデラまでは認められていて「まぶしい」との問題もあるが、1200カンデラになるとしても、点灯していることは「人間の良心の証」と認めるほうが良いだろう。
【前回は】交通事故率、高齢者より10・20代が突出 デイライトや視認性に注目 (上)
視認性向上で助かる命がどれほどいるのか。年間の交通事故犠牲者が約4,000人であり、例えば、その1%でも視認性が良いために救われるとしたら、重要視してもしすぎはない。なぜなら死亡事故を起こせば、被害者も加害者も、生涯を失ってしまうからだ。
■ボディカラーで視認性が大きく違う
視認性の良さはライトだけではない。車のボディカラーによっても、夕方など確認できる距離が近づいてしまう。歩行者から見て自車を確認できる距離が2倍程度違ってしまうとのデータもあるそうだ。
車のボディカラーは、「黒、灰色、こげ茶」などの暗い色を避け、「黄色、白、シルバー、レッド」など視認性がある色を選ぶ必要がある。命の大切さを平時から理解できるのなら、車の色は視認性に優れるものに限り、法律で指定すべきなのかもしれない。もしそれで、これまで半世紀の間に多数の命がが救われていたのが事実であるのなら、言葉もない。
自動車産業の市場の都合など無視して言えるのなら、車のボディカラーは「趣味性」など排除して、「視認性だけ」で決めるべきであろう。今この時も助けられる犠牲者がいるのだから、出来るだけ早く法制化して全世界で決めるべきだ。しかしなぜか、犠牲者を出しながら、最善の方法論ではなく「趣味性」が自動車の価値を決めてしまう。明日の犠牲者は自分や家族かもしれないのに、身近な問題として捉えられないのが人間だ。
ボディカラーで車を決める人が多くなっている時に、この提案は、はなはだ「空気が読めない」ということとなるのだろうか。「自動車交通インフラ」はこれほど不完全で危険なシステムであるのに、なぜ使用をやめられないのかは、「経済的便利さ」と「犠牲者」を比較して、利便性と経済規模を優先しているのだ。
仲間の犠牲によって生きていく動物の性であると諦めるべきなのだろうか?家族を失った人々に、この矛盾を告げることが出来るのだろうか。(記事:kenzoogata・記事一覧を見る)