「円の闘い」(5) 為替相場完全自由化の道程と日本バッシング
2018年10月23日 08:29
疲弊困憊した米国は1971年8月15日、時の大統領リチャード・ニクソンが全米向けラジオ・TVで、「内外経済問題に関する緊急提言」と銘打った演説で8項目の新経済金融政策を掲げ「大量失業、インフレ、ドル危機の打開に立ち向かう」と宣言した。8項目は以下の通りである。
(1)投資税控除の復活
(2)自動車消費税の撤廃
(3)個人所得税控除額の引き上げ
(4)連邦支出の47億ドル削減
(5)90日間の賃金・物価の凍結
(6)生計費閣僚委員会の設置
(7)10%の輸入課徴金の実施
(8)金・ドル交換の一時停止
俗に言う「ニクソンショック」である。
このニクソン声明に対しフランスを先頭とする欧州各国は、痛烈な批判を浴びせた。「たまったドルは積極的に金と交換し目減りをヘッジする」ことを政策として掲げていたフランス大統領のジョルジュ・ポンピドーは「これは西欧諸国の共通見解」とし、こう世界に発信した。「ニクソン声明はIMF協定・GATT規約・SDR(IMFの特別引き出し権:ブレトンウッズ会議で定めた為替の固定相場を支えるために、保有する金を実質上ドルと交換できる制度)協定に抵触する」。そして西欧各国は翌16日から「外為市場閉鎖」という抗議行動に出た。が、「閉鎖」は僅か7日後の23日には、解かれてしまった。何故か。後に経済企画庁長官(現内閣府長官)となった相沢英之に、こう聞いた。
「外為市場の閉鎖に米国はなんら譲歩の姿勢を示さなかった。翌年に大統領再選を睨んでいたニクソンは8項目を譲歩するわけにはいかなかった。西欧諸国の対応策検討といっても、これといった強固な合意が得られたものではなかったからだ。音頭をとったフランスにしても、10%の輸入課徴金による対米輸出減より真に恐れていたのは(米国の)弟分の日本・カナダの出方だった。米国の最大の庇護のもと筋肉体質の経済大国となった2国が、対米輸出の目減り分をフランス向け輸出でカバーしてくるのではないかという危惧を抱いていた。要するに西欧諸国の各国事情が利害の一致をはばみ、対米批判に温度差があったということだ」。
私は相沢に「弟分はいくらなんでも・・・」と言い返した。相沢は「じゃなんで日本は共同戦線を張り外為市場を閉鎖し続けなかったのだ」と切り返された。調べ直した。確かに16日から19日午前まで、日本の外為市場は開いていた。日本市場にはドル売りが集中した。16日:6億ドル/17日:7億ドル/18日:3億ドルと当時としては「超」の字がつくドル売りだった。そして19日午前に6億ドルの売り物が出た時点で事実上の「閉鎖」を余儀なくされた。
19日付けのフランスのローカル紙は「日本のドル買いは狂気」と報道した。何故日本はかくも西側諸国のバッシングを受けるようになったのか。ニクソン声明から2日後の18日に日本政府は、米国通として知られていた当時の大蔵省財務官の柏木雄介を米国に特使として派遣している。柏木は「調停案」を背負わされていた。「為替の固定相場制、1ドル・360円の堅持」を大前提に「(ドルの価値向上のため)金価格の5%引き上げを呑む」という内容だった。対して米国側の答えは日本の腐心案!?に耳を傾ける風など全くなく、「17%~25%幅の円切り上げを望む。米国の国際収支改善に協力してほしい」と繰り返すだけだった。この経緯は即座に西側諸国の知るところとなり欧州勢の「日本憎し」は増幅し、「日本はドル買いに向かわざるをえない」と見越されドル売りを加速させていった。
8月16日から27日までの10日余りで日銀は、世界中から日本の外為市場に向けられた50億ドル余りの売りを買い支えた。結果、日本の米ドル準備高は本家(米国)の保有する122億ドルを上回る125億ドルとなってしまったのである。ここに至り、日本も方針転換を余儀なくされた。27日夜8時、第三次佐藤栄作内閣の大蔵大臣だった水田三喜男は緊急記者会見を行いこう発表したのである。
「国際情勢にかんがみ、外国為替相場の変動幅の制限を明日28日から暫定的に停止する。この旨はIMFにも通達した」
この瞬間「暫定的」とはいえ、1ドル・360円の固定相場制は実質上終焉した。
一歩踏み込んで記すと、完全変動相場制の入口となったのは『スミソニアン合意(12月18日)』である。ワシントンのスミソニアン博物館で開かれた会議には、当時の西側諸国の代表国10カ国(米国・日本・西ドイツ・オランダ・ベルギー・英国・フランス・スウェーデン・イタリア・カナダ)の蔵相と中央銀行総裁が顔を揃えた。水田と佐々木直は「政治的死守線」を背負い会議に臨んだ。「円の対ドルレートの引き上げ率を15%台にとどめる」。各国が「死守線」を胸に米国財務長官コナリーと渡り合った。「15%台の切り上げに止める」という背景を前出の松川直哉(元大蔵省財務官)は、こう説明してくれた。「輸出勢力の先導役だった商社との約束事だった」とし「当時の大蔵省の認識は1ドル・311円、対ドルの切り上げ率15・8%がギリギリの妥協線だった」と語ってくれた。19日の日本経済新聞朝刊は大見出しこそ「通貨ギリギリの攻防」としながらも、並行して『円、15%台切り上げで決着か』としたのも松川の見方を取材で確認していたからであろう。各国とも死守線維持のため、策を弄して交渉を仕掛けた。が、結論はコナリーが会議の冒頭で提示した素案と全く同様だった。
★金のドル表示を1オンス・35ドルから37・5~38ドルに引き上げる(実質上のドル切り下げ)
★日本の円は対ドルレートで17%前後切り上げる
★西ドイツマルクは13-14%引き上げる
★フランスフラン・英国ポンド・イタリアリラは、金に対するドルの切り下げ率と同率の切り上げとする
米国の駆け引きの勝ちだった。冒頭「輸入課徴金(10%)は貿易問題」として切り離す姿勢を強調しておきながら、最後に各国間の状況の違いを手玉にとるように「★」と断じた後「各国各位の提案を熟慮した結果、輸入課徴金の設定は白紙に戻す」としたのである。
水田・佐々木は「1ドル・308円」に押し切られ、帰途についたのだった。
帰国後、造船業界などを先頭に輸出主導型業界から抗議団が大蔵省に押し寄せたという。そんな中、公の記者会見の席で「為替というものはそもそも、固定しようとするのが無理なのだと思う」とした人物がいた。当時の三井物産社長の水上達三である。
爾来、円相場は何幕もの舞台を経ながら「円高」基調を強めていった。最終回の(6)では1ドル・100円時代に突入した背景を、「三流政治の悪夢」を主体に記したいと思う。(敬称、略)(記事:千葉明・記事一覧を見る)