「円の闘い」(3) 1ドル・360円の論拠!?

2018年10月19日 17:47

 1ドル・360円はどのようして決まったのか。これまたその経緯を記した公式書類は残っていない。取材の範囲で幾つかの説に出会った。が、いずれの説にも疑問が残った。

【前回は】「円の闘い」(2) 1ドル・360円の序曲

 ただ決定に当たって重視されたと考えられるものに、1948年に導入された『P・R・S製』がある。代表的な輸出物品と輸入物品について個別に円・ドルレートを暫定的に定めたものである。だがそこには相当の幅が設けられていた。旧経済企画庁(現内閣府)の「戦後経済史・総観編」でみると、代表的輸出品の繊維の場合でも「綿糸:1ドル・250円」に対し「生糸」は420円という具合である。輸出入品目全てで比較すると銑鉄(輸入品)のレートは1ドル・67円に比べ代表的輸出品:セルロイド製品は600円という状況だった。

 そうした中で49年4月23日、マッカーサー司令として「1ドル・360円の為替レートを4月25日より実施する。(米国以外の)他国通貨との交換レートは、IMF所定の米国ドルとの交換比率にもとづき算定する」が命じられたのである。

 取材で出会った「1ドル・360円」の誕生の諸説だが、それなりに説得力を伴うものとしては以下の3つの説があった。

<1>48年10月に日米間の代表的な輸出入品ごとの価格をベースに、レートの算定作業は始まった。が、この段階では1ドル・160円から600円にその幅が及んでいた。どう収斂させるべきかという難問に早々にぶつかった。結論として浮上したのが日本に不可欠な輸入品と外貨を稼ぐうえで欠かせない輸出品、これらの米日の国内価格を基準に絞り込んでいこうという方法だった。P・R・Sレートが叩き台になった。代表的かつ不可欠な輸出品のドル・円レートを加重平均(合計金額÷合計個数)するという方法がとられた。作業の結果算出されたのが330円だった。

<2>代表的な輸出品だった絹織物のP・R・Sレートは1ドル・300円から420円だった。その平均値が360円。これが最終的な断の引き金になった。

<3>終戦の10年前(1935年)のドル・円レートは1ドル・3円50銭。以降米国の物価上昇率は約2倍、対して日本は約208倍。10年間で円の価値はドルに対して104分の1となっていた。そこで円の価値を104倍に戻すことにした。つまり3・5円×104倍=364円がはじきだされ、四捨五入して1ドル・360円が決まった。

 実は<1>は20余年前、元大蔵省の財務官で当時は日興証券(現・SMBC日興証券)の顧問に就いていた故松川道哉から聞いた。が、松川をして「30円の差を説明する根拠はどこにも存在しない」と言うのだった。<2><3>は実名を伏すことを条件に日銀OBで民間の代表的研究機関の「副理事長」から、元東大教授で戦後史の研究に身を委ねていた人物から聞いた。

 <2>に対しては絹織物と肩を並べる重要な輸出品といって過言がでない生糸(P・R・Sベースで420円)・綿布(同385円)・板ガラス(同600円)などにとり1ドル・360円は相当の円高水準。GHQは360円を輸出の新興に力点を置いた結果としているが、矛盾を感じないかと問うた。が、明確な答えは得られなかった。<3>に関しても、普遍性に欠ける。と尋ねたが「私の見解では」で終わってしまった。

 さて読者各位は、どの説を支持するだろうか。(敬称、略)(記事:千葉明・記事一覧を見る

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