続・トルクと馬力が分かると運転がうまくなる(1) 無視された死者4千人の社会インフラ議論
2018年9月8日 20:37
■無視された、年間4千人余りの死者の出るインフラの議論
少し前に書いた『トルクと馬力が分かると運転がうまくなる』の記事については他サイトでもピックアップされ、部分的に盛り上がっているようだ。しかしながら、最も重視したテーマは省かれてしまって、どこのサイトでも一言も触れられていない。不思議なくらい記事の最初に挙げた「メインテーマ」は無視され、「トルクと馬力」の話に注目が行ったようだ。これは「物書き」として、自分の執筆力を反省しなければならない。その上で不思議なのは、「社会インフラ」「社会制度」といった、日々慣れ親しんでいるものの概念を捉えて生活している人がほとんどいないことだ。
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自動車は、「社会インフラ」の重要なものの一つだが、鉄道・飛行機・水道・電気・ダムなどなど数あるインフラの中で、これほど危険な社会インフラも他に見つけられないだろう。今日にでも自分が自動車の犠牲になる可能性が感じられるからだ。「原発」が問題視されているが、毎年これほど死者を出しながら使われていることを考えれば、自動車は排除しなければならない筆頭になるはずだ。しかし、「自動車の使用を禁止する」とは誰も考えない。それほど「利便性が高い」と見るべきなのだろう。社会は、自動車なしには成り立たなくなっている。
■無視された免許制度の概念
しかし、「命のかかっている自動車免許は司法試験より難しくてもよいはず」と考えても不思議ではない。だが、「トルクと馬力」を理解できていなくても自動車免許は合格できる。そして、日本車において、「緊急ブレーキの制動距離がベンツより劣っていて」も問題として取り上げられないばかりか「大した差ではない」と多くの人が認識しようとする。その「わずかな差」で、自分を含めて「死んでいく人がいるかもしれない」と考えない。不思議な無感覚だ。
「トルクと馬力」の単位を正確に認識していなくても、運転を体感で利用できれば「安全運転」の精度は上がる。「トルクと馬力」をマニアチックに語ることも許されるだろうが、「運転が下手で危険が及ぶ」のは真っ先に自分だ。「ブレーキ制動距離が長い」ことは、最も身近な運転するときの恐怖に直結するはず。首都高で高速で暴走していた過去を持つ自分が感じていた恐怖を解説しようとすると、その筆頭に来るのが「止まれるのか?」という恐怖だ。ブレーキをかければどこへ飛んでいくか分からない恐怖がある。種々の車を40台以上乗り継ぎ、どこに出かけるにも車で行き、パトカーや暴走族とチェイスしていながら、50年間もクルマにかすり傷も付けていない記録があるにも関わらずである。
JAFの講習も受けた。国内B級ライセンスをもらって、A級ライセンス獲得を目指してラリーに参加し、ジムカーナで腕前を養った。しかし、仕事のため断念しなければならなかった。年をとってから参加したBMWトレーニングスクールでは、パイロンレースで若いレーサーの先生の記録を破ってしまって、嫌味をやられたことを未だに恨みに思っている自分がいる。それは、生活の必要性からレースを諦めなければならなかった自分の人生に対する恨みだ。
これらの経験から、自動車免許試験について、「安全性を上げるため」難しくするにはどのような方向性が良いのか?考える動機ともなっている。
次は、自動車ジャーナリズムの社会的責任について考えてみる(記事:kenzoogata・記事一覧を見る)