ソニーに金融機関(ソニー生命)をもたらした故盛田昭夫の執念 (2)
2018年9月5日 11:51
問わず語りに話は続いた。
【前回は】ソニーに金融機関(ソニー生命)をもたらした故盛田昭夫の執念 (1)
「僕は銀行に興味を持っていた。銀行を経営したいと考え続けていた。日本でもアメリカでもあちこち歩いていて地域の要所にある銀行の堂々たる建物が目に入り、羨ましくて仕方がなかった。ところがプルデンシャルの白亜のビルを目の当たりにして生命保険でもこんな凄いビルを持つことができるのだと知った。この時の印象というか感動を僕は30年間余り引っ張り続けていた。だからいまがあるのだと思う」
盛田が口にした「いま」とはなんなのか。
1987年9月1日。ソニー・プルコという新しい生命保険会社が日本に誕生した。実質上のソニー生命。こう記すと読者諸氏から「盛田さんは銀行を作りたかったのではないのか」という声が飛んできそうだ。そこでまずは盛田の銀行設立に向けた動向を記しておく。
1970年代前半(昭和40年代終盤)に入り盛田をリーダーに、ソニーの社内に「銀行設立プロジェクトチーム」が発足している。盛田は「銀行の設立を大前提としたプロジェクトチームだった。当時のうちのメインバンクだった三井銀行からも人材を借りて本腰で臨んだ」としたが、それ以上は多くを語ろうとはしなかった。断片的に「大蔵省に持ち込み門前払いを食わないようにするための準備は万端だった」「手続きを一手たりとも外さないように作業を慎重に進めた」と語り始めるのだが口調は重く、ついに語る目線は宙に浮いてしまった。
私は盛田の取材に際し1冊の書籍を持参していた。国友隆一の著作『やじうま金融講座』である。そこには「銀行設立後3年間の収支計画」などな銀行業参入の申請に不可欠な提出書類が詳細に記されていた。書類を受け付け審査に当たる銀行局銀行課への取材に基づく「判断要因」も多面的に記されていた。盛田もその1冊を見て「懐かしいな」とし、そして苦々しそうに(私にはそう感じられた)言った。
「設立条件をクリアできるとかできないというのとは全く別問題で、端から設立の可能性はゼロだった。それがプロジェクトチームのえた結論だった」
盛田は「銀行設立」に大蔵行政の巨大な壁をいやというほど味あわされた。口調にそれは明らかだった。気まずさを感じたことをいまでもハッキリ記憶している。が、戦後の稀有な名経営者の一人と言って誰も異論を挟まないであろう盛田は、タフな男だった。宙に浮いていた目を元に戻しこう話を転じたのである。
「1961年にADR(米国預託証券)を発行し実質上日本企業として初のニューヨーク市場に上場して以来、僕の金融機関に関する認識が日増しに深まっていったのは幸いだった。金融機関との付き合いが質・量ともに目いっぱい拡がった。事業拡張のために日本とアメリカで繰り返しファイナンス(増資)をやった。そうこうしているうちに内外の証券会社はもとより増資を引き受けてくれる内外の生保や銀行といった機関投資家との関係が深まっていった。深まるほど僕の気持ちの中で『事業展開と金融がいかに密接な関係にあるか』という思いが膨らみ、是が非でもソニーの金融機関を持たなくてはならない。金融機関が手の内にあれば事業展開に鬼に金棒という思いが強くなっていった。それがあったればこそ銀行設立で暗礁に乗り上げ挫折感に打ちひしがれながらも、あれを見逃さずに済んだ」
盛田の言った「あれ」とは何を指していたのか。大蔵行政の銀行に限らず証券でも保険でも設立申請は受け付けるがOKは絶対に出さないという姿勢は、まさに岩盤だった。銀行設立申請でそれを肌身で実感した盛田が銀行プロジェクトチームをたたまんとするまさにそんなタイミングに、ある情報が聞こえてきた。それは「米国の保険会社オールステートが西部流通グループ(現セゾングループ)と合弁で日本に上陸して来るらしい。大蔵省は認可の方向だ」というものだった。盛田は「(日本)上陸を狙う外資との合弁なら生命保険進出の道はある」と呟いた。
1976年に事実「西武オールステート」が新たな国内生保として設立に至っている。情報に接した瞬間から盛田は動いた。盛田自慢の海外情報網をフル回転させ第2のオールステートを探した。が、なんら手掛かりを得ることはできなかった。しかし盛田の海外人脈は生命保険設立の糸口を引き寄せることになる。1976年も後半のある日だった。福音を持った1人の客が盛田の前に現れた。
ドナルド・マクノートン。米国最大の生命保険会社、プルデンシャルの当時の会長である。マクノートンは全く別の用事で来日していた。言葉を選ばずに言えば「ついで」に盛田を訪ねてきたのだった。いちおうの名目は「ソニーの現況を知りたい」。ソニーの海外でのファイナンスにプルデンシャルは積極的に応じ、ソニーの大株主の1社に名を連ねていた。盛田は東京・品川区の本社でマクノートンを迎えた。「財務部門の担当スタッフを中心にどんな質問にも答えられるような体制で臨んだ。が、現況説明はそこそこで時間の大方は僕とマクノートンの世間話に終始した。お互いにファーストネームで」と振り返っている。
なぜ盛田とマムノートンは企業のトップと大株主という間柄を超え、「ついでに寄りファーストネームで雑談を交わすほど親しい間柄」だったのか。盛田は「ああいうのを、世の中では因縁と言うのだろうね」とした。2人の出会いは同じ時期にIBMの社外重役を務めたことだった。しかし盛田にもマクノートンにもIBMの社外重役同士という立場での知人は他にも多々いた。そんな2人の距離を「ファーストネームで呼び合う」までに縮めたのは、前記したミシガン湖湖畔の白亜のビルディングだった。
IBMの社外取締役会が行われたある日の昼食の席で盛田は「Mrドナルド」と声をかけ、件の白亜のビルを見た時にどんなに驚いたかを切々と語りあけすけに「生命保険会社というのはあんな大きなビルが何故持てるのか」と聞いた。マクノートンは「よくぞ聞いてくれた」といった口調で「あれほどのビルはプルデンシャルでも初めてだった」と嬉々として語った。そんな遣り取りが「ファーストネームの中」を作り上げたのだった。極論すると白亜のビルを話の肴に2人の距離が急接近することがなかったら、ソニー生命は誕生していなかったといって過言ではない。(敬称略)(記事:千葉明・記事一覧を見る)