オリンパス社長解任と日本企業のグローバル経営(2)

2011年11月9日 18:41

■オリンパス
 前回ウッドフォード社長の解任の一報を聞いてから数日で原稿を書いた。その際、Financial Timesに掲載されたウッドフォード前社長のインタビュー記事について多少触れた。

 「今回ウッドフォード社長が、疑いを確認するという当たり前のことを行ったことが解任につながったとしたら、お粗末極まりないことになる」というのが前回原稿の最後だ。

 まさにこの前提が、正しかったことが本日のオリンパス、高山修一社長の記者会見で明らかになってしまった。

 本稿では、このコラムの趣旨としてこうした事件そのものの論評ではなく、日本企業のグローバル経営という視点から考察してみた。

 今回は2つのテーマについて触れる。「日本企業で隠ぺい体質はなぜ生まれるのか」と「個人の責任」についてである。

■日本企業で隠ぺい体質はなぜ生まれるのか
 私は本来「日本企業」や「日本的経営」という言い方は極力使わないようにしている。その理由は、オリンパス等日本企業に多くみられるとされている経営の特徴は、その背景や構造を同じくすれば文化や国を超えて普遍的に同じ形になると考えているからだ。経営は文化論ではない。組織構造や市場などの説明変数の組み合わせだ。

 では、「隠ぺい体質」が生まれる理由は何か。それは、「同質性」というキーワードにあると考える。新卒採用を中心とした、強固な「同期」による組織形成。その中で、特にバブル期前後まではほぼ全員が足並みをそろえて係長・就任に昇進し、課長の席も数年以内であれば多くの同期が到達していたという組織マネジメントにその理由を見つけられる。

 こうした組織では、同期を目線の中心として、中間管理職昇進前後で競争の圧力が高まる。自分の組織内での位置づけを、同期の中で相対評価し始めるのだ。

 会社は、中間管理職前後の社員がお互いを意識することから発生する競争心を逆手に取るようなマネジメントを行う。

 こうした中では、顧客や市場ではなく、社内から自分がどう見られるのかという評価が優先する。そうした中で、社内の「不正」を見つけた時どのような反応になるのだろうか?

 絶対的な物差しを基準に判断する=不正を告発するのか、それとも、長いものには巻かれろということで、見て見ぬふりをするのか・・・?

 残念ながら、30代以降の労働市場が外側に解放されていない日本の雇用環境では「自分の出世を犠牲にできない」「今の会社を辞めても条件が良くなるか分からない」といういくつかの判断により、結果的に見て見ぬふりを決め込むことが多くなる。

 こうしたことから、上位の役職者になればなるほど自分の社内での評価を気にするがゆえに、上位者の意向を無視しては意思決定ができなくなる。かくして日本企業一般は、意思決定が遅くなる。決裁権限以内の意思決定であっても、その上位者にお伺いを立て、意向を確認した後で決裁を通すというのは、日本企業では普通のことだ。

 だが、多くのグローバル企業では、決裁権限以内のものを上位者にお伺いを立てることが続くと、「意思決定ができない人」という評価が下る。

 日本では、同質性から生じる文化、解放された労働市場の欠如等から、結果的に自分の絶対的な価値判断の尺度ではない意思決定がされてしまう。隠ぺいされた不正を正すという絶対的に正義な行為により、自分自身の便益への影響や自分の組織(部、課、「仲間」)への迷惑がかかるかもしれないという考え・・・これが隠ぺい体質につながる。

 今回のオリンパス社の経緯は、こうした中でおそらく代々の社長以外の多くの上級役員や本部長レベルでも、「知ってはいたこと」「噂にはなっていたこと」が、正面から挑まれることなく約20年もの長きにわたってたなざらしにされていたということだ。

>>次ページ 2重の意味で「残念」なこと

■個人の責任
 ウッドフォード前社長も約30年オリンパスでたたき上げ、ここ最近は上級経営陣の一角を連ねていたのだ。問題意識が無かったわけではあるまい。

 事実、ウッドフォード前社長のインタビューからも、特に英国の医療機器会社の買収価格については高かったと思っていたことが触れられている。

 とはいえ、日本であれ欧米であれ、直接自分の業務職掌にない件についてはよほどのことが無い限り突っ込んだ口を出すことはないのは事実だ。ウッドフォード社長も、このまま社長にならなかったとしたら今回の経緯を深く調査するような意思決定をしなかったのではないかと、私は考える。

 こうして考えると、今回の一連の経緯で皮肉をこめて2重の意味で「残念」なことがある。

 2つとも菊川前会長の意思決定だ。1つは、自分自身が損失隠しに関わっていたことを隠してウッドフォード社長に引き継いだこと。もう1つは、菊川前会長の西洋人一般の「個人の責任」についての理解の欠如だ。この2つ目の点を少し掘り下げてみよう。

 一般に西洋人が個人の責任を問われるとき、日本企業のような同質性に基づいた、集団の規範による価値よりは、自分の信念で意思決定をする確率が多い。

 その理由は2つだ。価値観として「個人」に焦点が当たるキリスト教文化が1つ。もう1つはある程度の役職で実績を積むことで、例えオリンパス一社だけで30年近くであってもむしろ個人としての市場価値が上がるという労働市場があること。この2つを満たすウッドフォード社長が、不正の可能性を知った際に通常の日本人とは異なる反応を示すことは十分理解できる。

 彼は雑誌の記事の英訳を見たことが本件追及のきっかけだったと話している。

 一度会社の数字についての疑問が発生した以上、全ての承認事項に個人的な責任が発生するというのが欧米社会での典型的な価値観だ。「署名」という文化に象徴される。ウッドフォード前社長でなくとも、同じような身におかれた場合多くの反応を示すだろう。

 その時、ウッドフォード前社長のように徹底的に追及に走るかどうかは欧米社会のビジネスマンとしては程度の差はあると思う。ただし、自分が不正(の可能性)を知ってしまった以上、自分が「署名」すべき財務諸表、それも公開企業の、についての疑念が晴れない限り、半端な覚悟では署名できない。それが普通の欧米社会での価値観だ。

 日本人はよく契約に関して寛容とされる。それは、社会的に契約について書かれた文言よりは、当事者同士の話し合いを優先する文化があるからだ。西洋にはそれは無いと言っておこう。お互いに信頼できるからこそ、細かい文書に残しておき、その内容について双方に署名するということができる。署名や信頼ということについての根本的な価値観の差である。

■今回の考察について
 日本企業には多様性が必要だ。国籍、言語、宗教、信条、性別等様々な面で多様な中でお互いに切磋琢磨することで、イノベーションが起きる。それだけでなく、企業統治の概念からも、「本当に会社にとって、社員にとって、顧客にとって、株主にとって」よい意思決定をしているのかを多面的に判断することができる。多様性(ダイバーシティ)は、イコール女性活用だと思っているような企業は、その根本的な必要性を考え直した方がよい。グローバル化とは、すなわちダイバーシティのマネジメントだ。

 多様性の中で意思決定するためには、その中で通用する強い意志と信念を、一人ひとりが持つ必要がある。その意思と信念から「責任を果たす」ということへの覚悟が生じる。

 若干脱線するが、グローバル企業で、役員級以上の人材が多額の報酬をもらっていることに対して、よく日本では批判があるようだ。

 私は、そうした批判には反対だ。多くの上級管理職は、戦場の中で自分の意思決定一つで多くの資源を配分する責任を負っている。いつ何時その責任を問われても、きっちり説明できることが必要とされている(それがアカウンタビリティだ)。

 こうした条件を満たしていると考えられる人間は、それなりの仕事をしている。

 今回の結論:真のグローバル経営をするためには、同質性を排除する必要がある。その中で、一人一人が、職務において持っている責任に真摯に向き合う必要がある。

 また、多くの日本企業が自社社員の日本人だけを海外赴任させたり、英語教育をさせたりして「グローバル化のための戦力」を作っているようだ。大きな間違いである。

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