ウォール街を知るハッチの独り言 アメリカはチャンスの国だと改めて思った話(マネックス証券 岡元兵八郎)
2022年6月1日 09:23
*09:23JST ウォール街を知るハッチの独り言 アメリカはチャンスの国だと改めて思った話(マネックス証券 岡元兵八郎)
さて、マネックス証券の「メールマガジン新潮流」が、5月30日に配信されました。
そのなかから今回は、同証券のチーフ・外国株コンサルタント、『ハッチ』こと岡元兵八郎氏のコラム「ウォール街を知るハッチの独り言」の内容をご紹介いたします。
私は4月末に渡米する機会を得ました。コロナ禍であった為、ほぼ2年半ぶりのことです。 その時に、改めてアメリカがチャンスの国なんだなとつくづく感じた体験をしたのでご紹介したいと思います。
それはサンフランシスコからシリコンバレーへ私を運んでくれたウーバーの運転手との50分程度の会話でのことです。
運転手の名前はディビッドさん、彼の話から推測すると時は1970年頃です。彼はベトナムのホーチミン(当時サイゴン)出身で高校を卒業すると同時に南ベトナムの軍隊に入隊、ベトナム戦争で北ベトナムと戦うのですが、敗戦で23歳の時に捉えられると3年ほど捕虜として北ベトナムの刑務所に投獄され、ジャングルのなかで強制労働を強いられたと言います。
その後解放され、1年後には小型船に乗りマレーシアへと避難したそうです。小型船と言っても228人程度のベトナム人が乗っていたそうで、マレーシア到着前に船が沈み無事マレーシアへ到着できたのは乗員の9割程度だったと言います。ディビッドさんは到着と共にマレーシアの小島に設けられた難民キャンプに収容されます。そこには食べ物のみならず、真水もほぼなく、海が彼にとってのお風呂であったと言います。そんな辛い人生を送っていた彼にある日転機が訪れます。
その難民センターに、ある時米国政府の役人がやってきて、彼が米国と共に北ベトナムと戦ったことを確認すると、マレーシアに到着してから8カ月後にはアメリカ政府は彼を難民として受け入れたのだそうです。
それはディビッドさんが28歳の時です。アメリカで最初に着いた街がサンフランシスコで、それから彼はこれまでずっとサンフランシスコに住むことになります。渡米後彼は最初に教会の施設に収容されますが、英語が全くできなかったので、まずは語学学校で英語の特訓をし、その後Tシャツの印刷工場で働いたそうです。ローリングストーンズの舌が特徴的で有名なデザインのTシャツがありますが、ディビッドさんはそれは俺が印刷したんだと嬉しそうに話しているのが印象的でした。
その後彼は色々と仕事を変えますが、最終的には住宅やオフィス建物の屋根の修理をするビジネスを始め、22年間続けたそうです。そのビジネスは上手くいき、ピークでは10人ほどメキシコ人の従業員を雇うほどに拡大したと語ります。その時の彼の年収は10万ドル(約1,300万)を超えたと言います。
渡米時一文なしだった彼はサンフランシスコへ渡ってから5年後、少しずつお金も貯まり、車を買い、そしてマイホームを住宅ローンで買うことができ、マレーシアの難民キャンプで知り合ったベトナム人の女性と結婚したそうです。その後彼らは3人の子供に恵まれます。
子供たちには小さい時から外国語を勉強させたため、スペイン語、中国語、そしてベトナム語、英語ができるそうです。なぜ子供たちに外国語を勉強させたのかと聞くと、自分が外国語である英語で苦労したこと、外国語ができると仕事の選択が増えると思ったからだと言います。
彼の3人の子供達は皆医者になり、そのうち1人の息子はボストンの病院で働いているそうですが、その息子さんが、中国語とスペイン語ができるので病院では非常に重宝されていると教えてくれたんだと嬉しそうに語っていました。まさに彼の思惑通りの展開となった訳です。
現在70歳のディビッドさんですが、2015年にウーバーの運転手になったそうです。彼の子供たちや奥さんは、彼にもう働くなと言うそうですが、家にいても退屈なので、平日はウーバーでお客さんとの会話を楽しみ、週末は子供たちと食事を楽しみ、クオリティタイムを楽しんでいるということです。
マスクをしていたせいがあるかもしれませんが、彼は70歳に見えなく、その話し方には非常に元気がありました。
たった50分程度の時間だったのですが、ディビッドさんの波瀾万丈な人生の話。アメリカの社会を構成する歴史の生き証人の一人の貴重な人生談でした。私は彼の話を聞きながら途中で涙が出てきました。
ディビッドさんには、彼の人生について話をしてくれたことに大変感謝しました。
まさにこれがアメリカンドリームなのだと思った瞬間でした。
マネックス証券 チーフ・外国株コンサルタント 岡元 兵八郎
(出所:5/30配信のマネックス証券「メールマガジン新潮流」より、抜粋)《FA》