ガングロJKはどこへ消えた?「ニッポン制服百年史」に見る女子カルチャーの変遷
2019年6月10日 21:07
戦前から平成までの学校制服の変遷をまとめた展覧会「ニッポン制服百年史」が6月30日まで弥生美術館(東京都文京区)で開かれている。最初は女性の洋装の先駆けとなり、戦後は若さの象徴として浸透するが、やがて大人社会への反抗、10代同士のコミュニティツールへと変遷していく様子が興味深い。
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日本で初めて洋装の制服が登場したのは1919年。山脇学園(東京都港区)の初代校長の山脇房子氏が自らデザインしたワンピース型のもの。着ることで欧米レベルの教養とマナーを身につけるという、いわば教材としての役割を持っていた。1947年に学校教育法が公布され、現在の小中学校9年間制となったことで、制服は全国に普及していく。
60年代の学生紛争では「制服は自由を束縛する」として、生徒が活動して廃止となるケースも現れた。
70年代は「ツッパリ」ブーム、改造制服としてひきずるような長いスカート、コートのような丈の詰め襟が登場する。現在見ても異様な変形ぶりだが、この頃、制服は自己主張のための「ファッション」として認識されたともいえる。
女子高生の制服が大きく変わったのは80年代。きっかけは、都内の女子校2校のモデルチェンジだった。ブレザーにタータンチェックのスタイルは反響を呼び、受験希望者が急増。全国に広がり、現在まで続く女子高生スタイルの源流となった。
一方で、バブル期に制服は学校を飛び出しストリート・ファッション化する。90年代初め、一大ブームになったコギャルファッションだ。着崩したブレザー、ルーズソックス、そして「ガングロ」と呼ばれた日焼けメイク。放課後や週末、渋谷はコギャルにジャックされた。
女子高生の街であった渋谷から全国へと流行が広がり、社会の注目を集めることになったと、同展を企画した学芸員の内田静枝さんは説明する。情報の媒体となったのは「egg(エッグ)」「小悪魔ageha(アゲハ)」といった、読者参加型のティーンズ雑誌だ。都心に住む生徒のファッションが全国に波及し、彼女たちに憧れた地方の女子高生が同じスタイルで上京し、街を闊歩する。プリクラとPHSが、彼女たちのコミュニティをさらに緊密に、クローズドにしていった。
かつてのツッパリスタイル同様に社会からの拒否反応も強かったが、コギャルファッションは反抗するための着崩しではなく、同じスタイルで”繋がる”ことを目的としているのが大きな違いだ。
2000年代に入ると制服は一転、落ち着く。スカートを短くしたりしても、おおむね規定通りの着こなしだ。「令和のトレンドは無理をしない着こなし」(内田さん)と解説する。「デジタル世代の彼女たちの情報源はインターネット。ヴァーチャルの世界なら、画像編集アプリなどを使って、なりたい自分に”盛る”ことができる。さらにインスタグラムなどを使えば全国、海外にも発信できる。リアルで無理をする必要がなくなったということ」。
会場を一巡すると、100年の間に、制服は山脇学園の時代の清楚なスタイルに回帰したようにも見える。ネットの世界で何が起きているのか、知りたいような、そうでないような…。
同展では貴重な制服のほか、制服に関連した漫画、有名イラストレーターの原画なども展示。外見だけでなくカルチャー面に踏み込んだ考察は一見の価値ありだ。