スバルは迷走にピリオドを打って、再度スロットルを全開にできるのか?(3-1・発覚)
2018年11月16日 08:01
SUBARU(スバル)の迷走が1年を超えた。2017年10月に日産自動車の後を追うようにして検査不正問題が発覚してから、続報が相次ぎ今月にはリコールの届け出をするまでに至った。皮肉なことに、検査不正問題が発覚する直前期に品質管理体制を見直すべきだという社内の危機感が高まり、当時の近藤潤会長が新設されたCQO(最高品質責任者)に就任していた。売上高が2011年から2016年までの5年間で7割増という急成長を遂げてきたことに、品質管理が追い付いているのかという危機感が社内で高まったためだという。旧来の生産設備をだましだまし使って量産体制を続けてきたが、どこかに無理が出ているのではないかという潜在的な不安感が経営陣に共有されていたのだろう。
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2017年4月には品質管理の新組織を部署を跨ぐ形で立ち上げた。各部門の担当者が、品質保証体制を強化するための具体策を全社的に検討するためだ。その問題意識にも対応にも何ら問題はない。しかし、残念なことに既に機を逸していた。検査不正問題が発覚して以降はCQOの存在も、新組織の存在も霞んでしまうような混乱に巻き込まれた。
当初、完成車検査の不正問題に関する経営陣の意識は、1968年から2000年まで続いた日産(日産自動車)との業務提携により、日産の手法を学び取った結果であるとの思いを滲ませたものだった。謝罪会見に臨んだ吉永泰之社長(当時)が「日産の問題が発覚しなければ何の疑問も持たずに(今まで通りの検査を)続けていた」という発言に当時のSUBARU経営者の認識が垣間見える。
1968年から日産のチェリー、パルサー、サニーなどの委託生産を請負いながら、レオーネを販売していた歴史を考えると、日産の遺伝子がSUBARUの社内に色濃く残された可能性は容易に想像できる。2000年に日産との業務提携を解消してからは、日産の保有していた富士重工(当時)の株式がGMやトヨタへと移転した。落ち着いて製品の開発や製造が可能となった時期と2011年頃から始まった販売好調期が重なり、押せ押せムードの中で5年間を過ごした。
当然、生産設備の不足が表面化するが、年々の販売増加に対応する小手先の工夫を続けてきた。10万台単位で生産能力を増強する設備投資に踏み切らなかったため、設備投資の負担や過剰生産のリスクからは無縁だったが、工場内ではいつまでもささやかな改善や手直しが続く。販売が好調な営業サイドからは、納車を迫る催促が矢のように寄せられる。1台でも多く生産することが生産現場の至上命題になったとすれば、手順を一から見直そうとする人が出て来る余地はない。(記事:矢牧滋夫・記事一覧を見る)