情報化社会では「釈迦に説法」に注意しなければならない

2017年9月25日 15:56

 「釈迦に説法」という言葉があります。
 とても詳しい人に物事を教えているという意味ですが、その使い方は「自分よりもよく知っている人や上手い人に物事を教えている様子の愚かさ」を例える時や、「詳しい人に教えければならない時に、自分が謙遜して言う」といった場合があります。

 私のようなコンサルタントという立場では、超一流のビジネスパーソンに対しても、何かを教えなければならないということがあり得ます。はっきり言って相手の方が実力は上だったりしますから、伝え方には本当に気をつけなければなりません。

 私がとにかく心がけているのは「偉そうな態度」「上から目線」「一方的な物言い」をせずに、誰に対しても謙虚に接するということですが、そうは言っても実際には足りておらず、「釈迦に説法」に陥ってしまっていることは、今までも数多くあっただろうと思います。

 また、その分野の達人と言われるような実力者であればあるほど、他人がひけらかす中途半端な知識に対しては、「なるほど」などと言って受け流し、あえて指摘はしないので、自分が相当敏感になっていなければ「釈迦に説法」だったということにはまったく気づけません。あらためて、本当に気をつけなければいけません。

 その一方、他人が陥っている「釈迦に説法」には、最近特に気になることが増えました。自分が意識しているせいで、他人の振る舞いは目につくということがあるのかもしれませんが、どうも自分が年令を重ねるほどに周りの人の平均年齢も上がり、そうやって経験を積んできた人ほど自分の知識をひけらかしたがる傾向があるようで、自分の知識に自信がある人、また相手のレベルを気にしない人など、この「釈迦に説法」の状態に気づかない人が多くなってきたと感じます。
 そもそもコンサルタントという仕事をする人にはそんなタイプが多いので、よけいに自分の周りで目についているのかもしれません。

 この「釈迦に説法」を気にしない理由は何かと考えると、自分の経験や知識、持っている情報量への自信だと思います。相手との比較で「こんなことは知らないだろう」「こんな経験はしたことがないだろう」ということですが、この自信は今の情報化社会では少し考え直さなければならなくなっています。

 例えば、昔はある程度の人生経験を積まなければ知る機会がなかったことが、今はインターネットやSNSなどを駆使して情報収集すれば、疑似体験として知ることができる機会はかなりたくさんあります。一部の経験者しか接することができなかったような情報を、リアルな画像や動画などを通じて見ることができます。

 もちろんそれはごく浅い情報かもしれませんが、少なくとも知識があることには違いありません。情報収集能力が高い若者は意外に多くのことを知っているので、例えば,年長者がいかに自慢げに語っても、実は若者にとっては既知のことというケースは意外にたくさんあります。
 これは「知識」だけでなく「経験」ということでも同じで、ちょっと調べれば多くの人が語っている経験談に接することができます。目の前で自慢げに経験談を語っても、情報を持っている人にとっては、多くの話題の中の一つにしかすぎません。

 そうは言っても、直接語り伝えることには間違いなく意味はあります。ただし、その語り方が問題だということで、相手の方が多くの知識、情報を持っている場合が確実に増えていることを認識しなければなりません。そのときの姿勢として、あくまで一つの見解、情報提供として「決めつけず、自慢せずに語る」ということが重要です。

 「釈迦に説法」も、当の本人が恥ずかしいと思わないならば、それはそれでも良いのかもしれません。ただ、そういう人に限って若者に説教じみた話ばかりして嫌われていたりします。せっかく良い話をしていたとしても、相手に受け入れてもらえないのでは意味がありません。

 情報化社会だからこそ、今まで以上に「釈迦に説法」には注意が必要な時代になっているのではないかと思っています。

※この記事は「会社と社員を円満につなげる人事の話」からの転載となります。元記事はこちら

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