人工頭脳(AI)時代に人間翻訳は生き残れるか?:第八回 二葉亭四迷と二刀流 地の巻 具
2017年8月8日 15:39
さて、地の巻「具」と唱えて筆者が語ろうとするところは、畢竟ひとの手足、船頭の櫓、名だたる大工の手斧の類の話だ。下世話には道具といい、今風ならツールと言う。弘法は筆を選ばずとは言えかし、それは方便、具は良いものを備えるにしかず。身構えるにも、技を振るうにも、所詮はよき具があってのことだから。
戯言はさておき、翻訳における「具」とは語彙然り、文法然り、文才然り。およそ翻訳家にはこのいずれもが必須だが、筆者の唱える具とはそんな次元のものではない。ある言語から他の言語へある内容を載せ替えようと思えば、語彙や文法や文才だけでは思うに任せない。
衣装を着せ替え、着せ替えして元の人形の風情を味わう、昔からの着せ替え人形の文化に似て、翻訳は人形ならぬ「原意」を損なうことなく衣装ならぬ言語を「着せ替える」文化である。これには並々ならぬ「具」がなければできない。ちなみにこれは、AI風情には到底及びもつかぬツールなのだ。
■二葉亭四迷
実は、そんな「具」を求めて苦渋した先人いた。
明治のもの書き二葉亭四迷は、ロシア語に堪能でツルゲーネフの短編で名訳を残している。「だ」調で言文一致運動の一翼を担っていた四迷は「た」調で過去時制、完了時制の先鞭を付けたことでも知られている。「あいびき」では、古来ののんべんだらりとした漢文崩しの語調とは打って変わった、しゃきっとした文体が新鮮だ。随所に句読点を敷き「た」止めで締める、至って新味な文章の魅力が、田山花袋など時の若い自然主義派の作家たちを惹きつけた。
さて、筆者が読者諸賢にご注目いただきたいのは、四迷がツルゲーネフの受け皿に日本語のシンタックスをがらっと変えて掛かったという点なのだ。ツルゲーネフの文体、いやロシア語のリズムを日本語に載せ替えるのに、四迷は新しい日本語を模索したという心意気だ。「あいびき」の文体は、四迷にとってツルゲーネフを翻訳するために欠かせぬ「具」だった、ということだ。
世に言う言文一致は、四迷のツルゲーネフ翻訳の過程から生まれた徒花だと言っていい。「武蔵野」にみるねっとり型の古風な文体にはツルゲーネフを載せ替えられない、「ここは思案のしどころだ」、と。つまり、四迷はあのような日本語を編み出すことで自前の「具」を手に入れたのだ。
■二束三文 for next to nothing
さて、話しを本稿の主題に戻そう。
長年の英語混じりの言語生活を振り返って、筆者は漠としながらも一つの「具」を探し当てた自覚があるのだ。翻訳という作業をこなすとき、ごく効果的なツールを身につけたと確信している。本稿でしばしば語っている二刀流翻訳という構想がそれだ。
二つの言葉を操るとき、一方に偏らず複眼的に意識する、「二束三文」と思えば for next to nothing などとオウム返し、「なんと言うことを」とぼやく刹那 for God’s sake と衝いて出る、などがそれだ。語彙で jargon や slang を「覚えているか」否かではなく、同じ状況をどちらの言語でも「意識できるか」どうか、というところだ。
そんな感覚は、このような状況下で生々しく顕れる...
ある英語の物語を訳出すべく荒読みをしているとき(筆者は本格的な翻訳作業に取り掛かる前に、辞書なしで通読仕切る習性がある)、訳語や文体をまったく意識することなく読み進みながら、無意識に日本語の文脈が同時進行的に、脈打つかのように聞こえる。その時聞こえる日本語が、そのまま後に訳文に生きるかどうかは別な話で、読み進める英語が、あたかもエコーのように、日本語のシンタックスでも聞こえるということだ。
閑話休題
アメリカでの大学生活で悩ましかった最たるものは、課される厖大な読書量だった。もちろん英語での話しだ。歴史でも心理でも、好んで受けた天文でも、次の授業までにハンパでない量の活字を追わねばならない。
筆者は、その過程で二つの技を身につけた。英語の速読と翻訳のプロト体験だ。読んでいるものを日本語に翻訳する、などという余裕も意味もなかったから、英語で読みながら内容の把握は日本語で、という、言わば解釈するに保険を掛ける過程で、自前の翻訳術を会得していったわけだ。途轍もない読書量をこなす「具」が、知らず知らずに身についた。複眼的言語感覚への開眼である。
そのような複眼的な言語感覚を、筆者はいま「二刀流翻訳術」と唱えている。翻訳という作業をするとき、これは途轍もなく効果的な「具」だ。四迷の言文一致にも劣らぬ、実践的なツールだと自負している。
翻訳が所詮は文化の挿げ替えだとすれば、挿げ替え終わってから二つの整合性をチェックするよりは、複眼的に整合性を意識しながら挿げ替えるに若くはなかろう。ここが二刀流翻訳術の真髄だ。
遡って考えれば、そんな複眼感覚が一朝一夕に獲得できるはずはないのだから、筆者の唱える「具」を会得するまでの旅路はchallenging でありexhausting である。(この辺りの語感を日本語でどう意識されるか、それも複眼の効であり二刀流の冴えだ。)拙書Kindle版「二刀流翻訳術 グローバルエイジのツール」には、その旅路の一里塚が植え込んである。お気に召せば、ご笑覧を。
次稿では、「人の巻 技」と題して二刀流翻訳の実際を生々しくお話ししよう。