「採用」にはそもそも何らかの偏りがつきものだということ

2017年7月17日 11:51

 地方に本社を置いているある機械メーカーが、本社を東京に一本化するという発表会見の席上で、同社の会長が、「今の本社所在地の県出身者は、閉鎖的な考えが強いので極力採用しない」との持論を語り、戸惑いや反発を生んでいるという記事がありました。

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 他の県内企業、行政関係者からは「出身地でレッテルを貼るのはおかしい」「侮辱だ」などの怒りの声があり、学校関係者からは「県出身の若者が閉鎖的とは思わない」と戸惑いの声が上がっているとのことです。

 こういう決めつけやレッテル貼りは、会社にとっては決して好ましいことではないですし、仮に持論があったとしても、公の場で堂々と語るようなことではありません。批判されても仕方がない発言だと思います。

 ただ、私のように数多くの企業の採用活動にかかわってきた立場の者からすると、こんな感覚を持った人は本当にどこにでもいて、逆にこの手の思い込みや偏見を持っていない人の方が少数派ではないかと思っています。こんなことを言っている私自身にも、たぶん偏見にあたるような部分はあると思いますし、そんな感覚は、採用活動を経験したことがある人であれば、誰にでもあるのではないでしょうか。

 このケースでは、たまたまある県の出身者という話でしたが、一般的に言われる県民性の違いというのは、たぶんそれなりには存在するのでしょう。ただ、みんながみんな、それに当てはまることはありません。

 このようなことは、企業の採用基準として使われる、多くのものに当てはまります。
 例えば、採用の時に常に言われる学歴や出身校であれば、偏差値などで示される学力的な差は確実にありますし、俗に言われる校風とかかわる学生の雰囲気の違いも、そういわれれば確かにあります。
 ただ、偏差値で示される学力差は、あくまで入学試験などの際のランク付けによるもので、その後の学生生活の過ごし方などを含め、個人の能力差を明確に表すものではありません。校風に伴う学生の雰囲気の違いも、それが全員に当てはまるものではありません。

 こういうことは他にもたくさんあり、「男は○○」「女は××」「お酒が飲めない人は付き合いが悪い」「体育会の学生は礼儀正しい」などと言った決めつけのたぐいはまだ序の口で、ちょっとここには書けないような、占いか都市伝説に近いようなことを真顔で言う会社がたくさんあります。そもそも「○○な人は××」などの単純化した言い方は、だいたいが何らかの偏見や思い込みとつながっています。

 ただ、採用基準というのはあくまでその会社次第のものであり、周りからとやかく言えるものではありません。例えば面談の場で応募者を明らかに侮辱したり、差別的な質問で気分を害したりすることは許されませんが、そういう態度を取らなければ、たとえどんなにおかしな採用基準であったとしても、それは会社の勝手ということになります。

 ですから、今回の件を批判している人たちであっても、もしも自分が会社で採用する人を決める立場になったとしたら、出身県で決めるようなことはしないかもしれませんが、他のことで同じような偏見に基づいて決めてしまうことは大いにあり得ます。

 ここで言いたいのは、多くの会社の採用基準には、偏見や思い込み、偏りの要素がかなり含まれているということです。
 本当は「公正な採用」ができれば一番ですが、何をもって公正だといえるのかは、はっきりいってわかりません。国の指針などで示されているような採用差別は許されませんが、そこから先の採用基準は、それぞれの会社独自のものです。そこには必ず偏りがあります。

 今回の件での問題は、その会社独自の偏見や思い込みを公の場で表明したことで、気分を害された人が数多くいたということに尽きるのだと思います。採用基準には偏りがあるものだと理解していれば、こんなよけいなことは言うべきでないとわかるはずです。

 この発言をしてしまった会社の評価は、これから間違いなく下がっていきます。人の気持ちを傷つけることは、やはり言うべきではありません。あらためて「口は災いの元」だと思います。

 ※この記事は「会社と社員を円満につなげる人事の話」からの転載となります。元記事はこちら

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