人工頭脳(AI)時代に人間翻訳は生き残れるか?:第七回 「腰に納めて死する事、本意に有るべからず」: 二刀流「天の巻」(身構え)
2017年7月10日 11:31
AIの脅威、とくに翻訳における人工頭脳のそれはそもそも如何ほどのものか、を語って稿をかさねてきたが、筆者は本稿から三巻、戯れに天地人と題して奥義もどきをご披露したい。AIに向き合う人間翻訳のサバイバルにこれぞという手管をご披露して、大方のご批判を仰ぎたいと目論んでいる。称して「二刀流翻訳術」、気障と知りつつ大上段に振りかぶってのプレゼンだ。
【前回は】 第六回 「浮草物語」と「荒野の用心棒」
振りかぶるにも意味があり、そもそも二刀流にも意味があっての言挙げである。情に欠ける、いや、そもそも情など不在な筈のAIを翻訳という道場で両断するにはこれに若しくはない、との思いからである。一刀両断とは言わぬところに企みがあり、筆者は左右に両刀を持って身構え、両断は二刀を以てする所存。言葉の戯れはほどほどに、ずばり核心に触れよう。
裸足と下駄と革靴と
翻訳という仕事は、宿命的に二つの言語を扱う。学生らの語学勉強の具ならいざ知らず、まっとうな翻訳の真髄は文化の移し替えそのもの、布なら木綿から絹への織り換え、旅なら裸足から下駄履き、さらに靴に履き替えての道中に等しい。字引頼りの言葉のすげ替えなどでは決してない、その言葉の育った環境、歴史などを呑み込んでの再生産行為、英語ならcultural reproductionとでも言える作業が「翻訳」というものだ。その作業では、つねに両語を両刀に置き換えて、複眼的に身構えることが肝腎だ。
乱暴な比喩を許していただければ、下駄履き文化の日本人が翻訳を生業とすれば、下駄文化圏の書きものを訳すになんの苦労もないはずだ。が、その文化圏以外の異人が裸足文化や下駄文化の書きものを扱うとなれば、単に裸足に「なってみる」、靴は「脱いでみる」ほどの認識では翻訳はできないとしたものだ。異人は現に裸足になって大地の感触を知り、鼻緒を爪先で摘(つま)む感覚を身につけねばならない。生来の革靴を履いての「土足感覚」を上書きせねばならない。
文化は学習研究の対象ではなく、摂取吸収するべきものだ。文化を操るのが翻訳なら、翻訳術も所詮は学習研究よりは摂取吸収こそが捷径だという道理だ。遡れば、二刀流の立場からは、言葉は異国の英語も母国語の日本語も毫も変わらず、ともに「習うより慣れよ」が揺るぎない哲理ということになる。
閑話休題
筆者は日頃から作務衣下駄履き、草履履きの生活だ。現役を退いて以来、靴というものを履いていない。爪先の健康には鼻緒を摘むに若(し)かずとばかり、素足下駄履きを通している。不思議なもので、生活臭までが日本化し昨今は読書も幸田露伴辺りの和漢風に偏っている。HPに書き連ねる言葉もいつかな言葉を紡ぐ習癖がついているように思える。実のところ、昨今英語書きにまでこの紡ぎ癖(へき)が感染しているのを感じる。自ら唱える二刀流感覚に自縄自縛されたかの筆遣いならぬキーボード捌きだ。
さて、二刀流感覚だが、筆者は両刀遣いの蘊蓄をまとめて、Kindleから本を一冊出版している。題して「グローバルエイジのツール 二刀流翻訳術」。これは筆者が「AlphaGo事件」以前に書いたもので、内容には当然AlphaGoにはなんの言及もなく、機械翻訳や人工頭脳の機能、ましてやdeep-learning云々の論議は一切触れず、ひたすら二つの言語を二刀に喩えて「文化の翻訳」について訥々(とつとつ)と語っている。
その後AlphaGo事件が起こり、AI翻訳やdeep-learning論議が俎上に載って、人間翻訳への脅威までが云々されるようなった。いま振り返れば、この本で書き連ねた多くのことが、今後AI翻訳に立ち向かう人間翻訳の立ち位置として、しきりに的をえているから面白い。あえて我田引水させてもらえれば、その論旨はわれながらの慧眼だったと自賛したいのだ
言葉の相互補完性
だが、この本を上梓するや、筆者はやや怯(ひる)んだ。
「二つの言葉を巧みに操ること —それが二刀流なら、その道の達人は二つの言葉のそれぞれを会得し尽くした上で、左右に使い分ける技も身につけている人、と言うことになる。これは容易ではない、誰でも簡単にできることではない、となれば、それを術などといっていかにも伝授できるかのように語るのは、これは体のいい騙りではないか。
だが、怯みながらも筆者は、こう自問し弁明を試みたい
「いや、人は民族や国民性は異なっても人間という意味では混然とまとまっている。言葉も、例えば英語と日本語は違っていても、血液としての機能が共通なら相互乗り入れは可能なはず、まして、両語を両刀に左右に身構えればなおのことである。
話は変わるが、その頃筆者は請われてある歴史書の翻訳に携わった。難書といわれて著述後40年も英訳ができなかったという代物(しろもの)だった。著者は台湾人。日本統治時代に身につけた明治大正期の古風な日本語を駆使して、熱血迸ほとばしるテンションの高い文章を連ねた。英語にしたら陳腐になり兼ねない内容を、筆者は自分の英語を駆使して挿げ替え、全巻ネイティヴチェックなく完訳したのだ。
筆者の思いは、この著者の声涙ともに降(く)だる文章を自分の英語で読者に味読して欲しかったのだ。英語っぽい英語にされてはいけない部分は、読む人には私の英語を介して著者の意を汲んで欲しかったのだ。
筆者はこの本の翻訳過程で、自分の語感と著者のそれとが相互乗り入れする希有な体験をした。語感と言おうよりは、文化的感覚というべきかも知れない。二刀流の醍醐味とでも言おうか。
二刀流の奥義
ここまで語り来たったことは、要すれば言葉と言葉、文化と文化を天秤の両端に置き、左右の刃で切り削ぎ、交え、紡ぐ所作そのものだ。二刀流翻訳の所以である。ある著者の書きものを翻訳しようと思えば、字引を繙(ひもと)く遙か以前に、その著者の語感から感性、歴史観からさらにその文化的組成まで承知せねばならない。物語なら筋書きよりはその骨格部分に真意があるものだ。
本稿の題「腰に納めて死する事、本意に有るべからず」とは武蔵「五輪書」の言、下世話に語れば「斬り死にするとき腰に抜かずの刀を残すのは不本意」ということだ。これは翻訳での本意でもある。これを二刀流翻訳術の「天の巻」(身構え)とし、さらに後稿に「地」(具)、「人」(技)の二巻を添えて奥義としたい。