労働政策でよく見る「努力義務」という言葉に思うこと
2017年6月12日 11:25
厚生労働省の審議会において、残業上限規制に関する意見書の中で、休日労働の抑制については「努力義務」にするという話題がありました。
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残業時間の上限を年720時間、繁忙期は月100時間未満と決めた一方、年間上限の720時間には休日労働が含まれず、その抑制は労働基準監督署の指導に強制力がない企業の努力義務とするとされており、上限規制の抜け穴になってしまうのではないかという懸念がされています。
労働関係の法改正で新しい規制が導入される際に、この「努力義務」という言葉が使われることはたびたびあります。
いつから実際に規制されるようになるのかは、その対象や周辺状況によってまちまちですが、私が企業の人事担当だった頃にこの「努力義務」という言葉が出てくると、そこで思ったのは、「とりあえずやらなくても大丈夫だ」ということでした。
世間の注目を浴びるような大企業ではそうも行かないかもしれませんが、一般的な中小企業、零細企業では、たぶん同じようなとらえ方だと思います。
この手の規定が「努力義務」と言われてしまうと、まったく意味がないとまでは言いませんが、その時点での実質的な効果はあまりないのではないでしょうか。
ただ、こういった課題に関する議論の経過を見ていると、「努力義務」という位置づけになってしまうのは、やむを得ないと感じる部分も数多くあります。やはり新たな規制や、その基準を決めるとなると、どうしても条件闘争のような議論が行われてしまうからです。
こういった時に、私がいつも思い起こすのは、「モラル」と「ルール」の話です。
ここで「モラル」といっているのは、本来あるべき姿の中心点のことで、「ルール」といっているのは、中心点から離れてもよい距離、基準のことです。
要は「ルール」というのは、本来あるべき中心点である「モラル」から、どこまで離れることを許すかということであり、「ルール」が作られると、多くの人はその基準ギリギリの境目でその事に対応しようとします。
「ルール作り」という視点で議論をすると、本来あるべき姿に近づけようということよりも、離れても良い距離に関する話になりがちで、ともすれば、その基準をあるべき姿からできるだけ遠ざけようという議論になってしまいます。
「努力義務」というのは、この妥協の産物ということになるのでしょうが、ただ、これをダメだと批判するばかりでは、物事が前に進まないのは確かです。
それまでなかった決まりを新たに作るには、それなりの手順は必要ですし、真面目に取り組もうという気持ちがある会社でも、いきなり変えられないことはたくさんあります。
私はこの「努力義務」という言葉を聞くたびに、本来あるべき姿とは違う場所を目指している違和感と、物事を進める上で必要なことだという思いが複雑に交錯してしまいます。
本来あるべき姿をストレートに目指せるのが一番ですが、この手の話はなかなか簡単にはいかないものです。
仕方がないこととは理解するものの、「努力義務」という言葉を聞くと、ついつい葛藤を感じてしまいます。
※この記事は「会社と社員を円満につなげる人事の話」からの転載となります。元記事はこちら。