ガルパンから歴史を学ぼう⑦97式戦車チハの車長「 池田 」は、戦車第11連隊隊長「池田末男大佐」です!多分!!

2017年5月25日 11:47

記事提供元:アニメコラムサイト|あにぶ

ガルパンから歴史を学ぼう⑦筆者の独断と偏見で解説!
知波単学園の97式戦車チハの車長「 池田 」のモチーフは、スターリンの北海道占領の野望を打ち砕いた戦車第11連隊隊長、池田末男大佐です!多分!!

 さてさて読者の皆様、GWが終わりましたが、皆様はいかがお過ごしだったでしょうか?

 GW丸々本業の仕事に勤しんでおりました、金剛でございます。

 提督業の同士の方々、艦これの春イベの進み具合はいかがでしょうか?筆者はこのコラムを書きながら、E-5のラスボスをようやく撃破しロシア艦「ガングート」を手に入れました

■今回は、千島列島とガルパンのつながりに関連したテーマでお送りします!


 今回の春イベは、あの千島列島、現在の北方領土の地域が舞台ですね。

 最近では、この北方領土問題がニュースで取り上げられることも多いのですが、このタイミングという事もありますので、この艦これの春イベの舞台となった千島列島とガルパンのつながりに関して、題材にしたいと思います。

 今回の艦これ、春イベにおいて、「占守島」「士魂」そしてE-4で「戦車第11連隊」という用語が出ていると思われますが、今回のコラムでは、終戦を迎えた1945年8月15日以降に、スターリンの北海道占領と日本分割占領という野望を担ったソ連の千島列島攻略部隊を、見事撃退寸前に追い込んだ、帝国陸軍第91師団と「士魂隊」こと「第11戦車連隊隊長、池田末男大佐」をネタにさせていただきたく思います。

 ちなみに、ガルパンネタという部分では、どの部分にこの千島列島とガルパンがつながるの?と思う方もいるかと思いますが、当然あります!!

 まず、占守島の防衛に当たった、帝国陸軍第5方面軍の第91師団という部隊の中に、戦車第11連隊という帝国陸軍内において、精鋭部隊がありました。

 この戦車隊では、帝国陸軍の主力戦車97式中戦車、その改良型97式中戦車改、そして、日本戦車としては生産数が最多となる95式軽戦車から構成されており、当然これらの戦車は、劇場版ガルパンで大活躍した知波単学園の戦車でもあります。

 そして、います!キャラクター!!そう知波単学園の面々の中にいます!「池田」という名のキャラが!!あまり目立たないキャラだったのですが、わかるでしょうか?

 髪を、鉢巻みたいなもので髪を縛っている彼女です。

 この「池田」のモチーフとなったのは、戦車第11連隊の隊長であり、陸軍内では「戦車隊の神様」と呼ばれた「池田末男大佐」と思われます。

■劇場版ガルパンでハイテンション、そしてツッコミどころ満載だった「知波伝統」の突撃!!!((笑))


 本題の前に、もちろんガルパンコラムなので、ガルパンに繋がる話をしなくてはなりませんね(笑)

 劇場版ガルパンでは、初登場となった知波単学園の面々ですが、隊長の西ちゃんは、目立つのはもちろん、知波単のロリ担当福田も人気キャラになっていますね。

 また、福田が乗っている95式軽戦車も、火力、防御に勝る聖グロのマチルダⅡを大洗市街戦で撃破した名シーンもあって、結論からいうと、知波単=西、福田、しか頭に残らない感じがする、と断言してしまうと同士ファンからは批判されてしまうかも…(;’∀’)

 他の面々はですね、みんな顔の特徴が似ていまして、誰が誰だか…(笑)あと、やはり、登場回数と、印象についても、西、福田の印象が強くて、他の面々の印象が薄いので…

 とりあえず彼女たちについて印象に残るのは、突撃して散る(笑)

 そして、知波単の伝統=突撃!!という繰り返しのセリフ(笑)なかなか面白かったし、彼女たちのブレない姿勢は、拍手物(笑)

 しかし、その突撃グセも、大学選抜戦では、我慢して我慢して、性能的には圧倒的に無理ゲーな、M26パーシングVSチハ、という戦いを互角に渡り合えたのは、素晴らしい、の一言(笑)

 そんな彼女たちには、それぞれ、細見、名倉、玉田、寺本、という名前が与えられていますが、このモチーフはそれぞれ実在した帝国陸軍戦車隊にまつわる名前という設定があります(確か…)

 その中に「池田」という名前があります。話を最初に戻しますが、今回はこの「池田」のモチーフとなっていると思われます、終戦直後、ソ連軍の千島侵攻を、その命を引き換えに阻止した、戦車隊の神様「池田末男大佐」をクローズアップします!!

 ちなみに、大学選抜戦ではこの「池田」の乗る97式チハは、パーシングとの遭遇戦で、速攻で行動不能になっていました(笑)

■占守島に上陸したソ連軍を撃破せよ!!スターリンの北海道侵攻の野望を寸前で打ち破った、「士魂隊」と戦車隊の神様、池田末男大佐


 1945年8月15日、昭和天皇の「玉音放送」にて、太平洋戦争は日本の敗北という形で終わりました。しかし、この玉音放送を認めず、満州国、南樺太、千島列島を実力で奪おうとした国がありました。大国ソ連です。

 これは、ヤルタ会談において認められた、ソ連にとっては戦争の「旨み」であり、実力で支配した地域を自国領に認めてもらえるという約束事を達成するには、満州国、千島列島、南樺太という終戦直前にあって、まだ日本の支配下にあった地域を、実力で奪う必要がありました。

 日本とソ連は1941年にいわゆる「日ソ中立条約」を締結しており、それまでソ連は、隣接する日本の傀儡国家である、満州国に攻撃を仕掛けていませんでした。

 1939年のノモンハン事件以降、両国の軍事衝突はありませんでしたが、この中立条約は、それぞれソ連はドイツとの戦いに、日本はアメリカとの戦いに専念したいという思惑があったともいわれています。

 しかし、1945年2月、クリミア半島で行われた「ヤルタ会談」で、アメリカのルーズヴェルト大統領が、ソ連の最高指導者、スターリンに対し、対日宣戦を要求。これに対しスターリンは、千島列島の引き渡し、当時日本領だった南樺太の返還、満州地方での商業権の獲得などを要求し、ルーズヴェルトがこれを認めました。

 実は、この時スターリンは、千島列島より先にある、北海道を占領するという野心をも、持っていたとされています。

 かくして、1945年8月9日、ソ連は対日宣戦を行いましたが、ソ連にとっては、日本が降伏するまでのタイムアタックでした。

 日本が降伏した時点で、軍事行動は停止しなければならないため、占領という既成事実を作るためには時間が何よりも重要でした。

■スターリン率いるソ連軍の日本侵攻


 実は、ソ連側では、この実力で占領という既成事実を作るために、一般的に昭和天皇の8月15日の玉音放送が、太平洋戦争の終結とされていますが、ソ連側では「天皇が各部隊に武装解除を命令するまで戦争は継続」という主張をしていたとされています。

 こうして、ソ連が満州侵攻に用意した兵力は約160万に上るといわれておりますが、対する関東軍(中国の日本軍)は約70万人を動員しましたが、内情は武器もまったくもたない部隊もあったほど弱体化しており、さらに、対米戦で多くの精鋭部隊を引き抜かれた状態の関東軍は、かつて日本最強の軍と呼ばれた時代とはかけ離れた戦力となっていました。それでも、動員された兵は、果敢にソ連軍に応戦。ソ連軍に3万8,000名の戦死傷者の出血を強いますが、ドイツとの戦いで鍛えられた最強の軍隊を止めることができず、終戦を迎えた15日以降も攻撃が続き、8月22日には全満州地域はソ連の手に落ち、関東軍も戦死傷者約8万名を出します。

 これに続いてソ連軍は、南樺太に8月11日に侵攻を開始します。ここには帝国陸軍第88師団という部隊がいました。第88師団は、北樺太と南樺太との国境線沿いでソ連軍との交戦を開始しましたが、兵力、また装備で劣る日本軍は各地で撃退されます。また、南樺太には40万人の日本人がいましたが、市民への被害も多かった中、第88師団は、10万人を北海道へ逃がすことに成功しています。第88師団の戦いは、同じく終戦を迎えた15日を迎えても続き、25日ころまで両軍は衝突。28日に、ようやく樺太の日本軍は武装解除に応じます。

 そして、ソ連軍は、千島列島に兵を向けます。ソ連が千島攻撃の準備にとりかかったのは8月16日という玉音放送の翌日で、この時、ソ連軍の千島侵攻部隊の主力だったのが、当時カムチャッカ半島の防衛、警備にあたっていた第101狙撃兵師団という部隊でした。そしてソ連軍は8月17日に、カムチャッカ半島南端のロパトカ岬から占守島へ砲撃を開始、18日午前2時にソ連軍上陸部隊の先遣隊が占守島へ上陸を開始します。

■池田末男大佐率いる戦車第11連隊は、絶望的な状況でも戦うことを決意。



 この時、占守島を守っていたのは、帝国陸軍第91師団という部隊でした。この部隊は元々アメリカを仮想敵国とした部隊でしたが、それまで大きな戦闘を経験しておらず、食料などの物資は比較的豊富であったとされています。

 そして、18日午前2時。闇の中を上陸してくるソ連軍に対し、沿岸の日本軍は抗戦を開始。防衛に当たった沿岸の日本軍は、この戦闘でソ連軍の上陸艇を13隻撃沈していますが、ソ連軍の一部は、沿岸の日本軍防衛線を突破し、占守島の中腹まで進出します。

 この時、日本軍側ではすでに終戦を迎え、兵たちは帰国の準備、装備の廃棄の準備が進められていたせいで、対応が遅れていました。

 占守島に布陣していた、戦車第11連隊も同じで、ほとんどの戦車が燃料やオイルが抜かれていた状態であったため迅速な対応ができませんでした。

 しかし、ソ連軍攻撃の一報が同隊に伝えられると、第91師団長樋口司令から、ソ連軍を追撃、直ちに撃破せよとの一報も入ります。

 これを受けて、戦車第11連隊隊長池田末男大佐は

 「赤穂浪士足らんとするものは一歩前へ、白虎隊たらんとするものは手を上げよ」

 部下を奮起させ、そして彼の部下たちは、終戦を迎え、日本で家族が待つ中、ソ連軍と戦い、祖国防衛という選択肢を選びます。

 こうして連隊は迅速に戦車の整備を行い、当時連隊にあった、64両の戦車は、随伴歩兵も伴わず、整備が終わった車両から順次発進するという状態で、ソ連軍に立ち向かいました。

 先鋒の27両の中に池田大佐も加わっており、大佐は日章旗を掲げ、鉢巻を縛り、先鋒隊は、中腹に進出していたソ連兵に攻撃、突進します。この時まともな対戦車兵器を持たず、また戦争に負けた日本軍の士気が、低下しているという前提で行われ、ソ連軍側の慢心の上で行われた上陸作戦であったため、ソ連軍はたちまち突撃した戦車第11連隊の攻撃により撃破され、中腹まで進んでいたソ連上陸部隊は、海岸線方面へ撤退を始めます。

 しかし、この時ようやくソ連側でも、対戦車ライフル、対戦車砲の揚陸作業が完了しており、撤退の最中、ソ連軍も戦車第11連隊へ反撃を開始。この攻撃により、先遣隊の戦車27両はすべて撃破され、池田大佐もこの戦いで戦死しています。

 しかし、この池田大佐の迅速な行動により、ソ連軍を浜辺へ押し戻し、さらに占守島の後方に布陣していた主力部隊を、ソ連軍の前面に配備するのに貴重な時間を稼ぎました。また91師団の堤司令は、91師団の主力があった、幌筵島の主力兵力を占守島へ移動し、これで完全にソ連軍を海へ追い落とす準備ができました。しかし、91師団の所属する第5方面軍から、18日16時、戦闘停止命令を受けて同師団は防衛に移ります。その間、ソ連と日本では停戦調停が行われておりましたが、その間にも同師団は、ソ連軍の攻撃を受けますが、主力が配備された同師団は、これを撃退します。

 そして21日早朝には、第5方面軍から完全な戦闘停止命令が下り、同師団は武装解除しました。その後ソ連軍に降伏した同師団の兵士たちは、シベリアへ抑留されることになります。

■「士魂隊」の意味を知っておいてほしい!


 この戦いでの戦死傷者は日本側で1,018名、ソ連側が1,567名となっているとされています。そして、この戦いで戦死した、池田連隊長は、その後少将へ昇進しました。

 池田大佐は、元々中国の四平戦車学校の教官であり、軍内からは「戦車隊の神様」と呼ばておりました。池田大佐は占守島の勇猛な戦いぶりとは違い、人柄は温厚、気さくで、身の回りのことは自分で済ますというそれまでの日本軍将校とは違った軍人だったとされております。

 ちなみに、コラムの最初にお話ししました、この戦車第11連隊を「士魂隊」と呼びますが、これは11を漢数字で「十」と「一」を合わせて「士」と見立てているとされております。

 艦これの今年の春イベにおいて、「士魂隊」という用語が出ていますが、同連隊を指しています。

 ちなみに、現在の陸上自衛隊第11戦車大隊は、この池田連隊長の戦車第11連隊の伝統を受け継ぎ、「士魂戦車大隊」と名乗っているそうです。同大体の90式戦車には「士魂」というマーキングが見られるのも、そのためだといいます。

■分断統治の危機から日本を守り切った 池田大佐


 占守島の戦いの後、ソ連政府機関紙「イズベスチア」は

 「占守島の戦いは、満州、朝鮮における戦闘よりもはるかに甚大であった。8月19日はソ連人民にとって喪の日である」と発表しているとされています。

 先ほどもお話ししたように、ソ連最高指導者スターリンは、この千島、南樺太の先にある、北海道占領を目指していたとされていますが、詳細には北海道の留萌市から釧路市に線を引き、北側をソ連領とするという計画まで立てていたと言います。また、とある資料では、ソ連軍は8月23日に、北海道上陸作戦を予定しましたが、前日の22日に中止しているという事も言われています。しかし、ソ連軍の侵攻が、これらの戦闘により遅れに遅れ、また占守島の上陸部隊が大損害を受けたこともあり、結局その後、北海道侵攻はなされなかったとされています。

 つまり、南樺太の88師団、そして池田大佐をはじめとする91師団が、ソ連軍と交戦しなかったら、北海道は戦後の東西ドイツのように分割され、日本という国家自体が「南北」に分割されていたかもしれない、という事も言われております。

 これは、昨年の靖国神社遊就館特別展での「大東亜戦争70年展最終章―今を生きるすべての人へー」という題材で配られた配布資料に詳細に書かれています。

 池田大佐の詳細は靖国神社に遺品やエピソード等が紹介されているのでそちらも参考にしていただけたらと思います。

■なので、ガルパンの知波単の戦車と「池田」とキーワードには思い入れ深いのです!


 艦これの春イベ、そしてガルパンの知波単の戦車と「池田」という共通点で今回のコラムを書かせていただきましたが、実は今回のコラムは私的な感情もありました。

 それは、筆者の母方が北海道の出身でありまして、もしこのスターリンの北海道侵攻があった場合、筆者は生まれていなかったかもしれないからです。

 私的な感情が入ってしまいすみませんでした

 それでは最後に、命を賭して祖国防衛に当たった、91師団と戦車第11連隊に敬礼!!(`・ω・´)ゞ

 知波単学園の面々にも敬礼!(`・ω・´)ゞ

 最後に、提督同士の皆様!春イベ頑張りましょう!!筆者は秋月堀に没頭しています!!(笑)

 ガルパンから歴史を学ぼう⑥プラウダ戦のモチーフは「スターリングラード戦」ではありません!多分!!

(あにぶ編集部/金剛たけし)

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