日本のルールは今のままでいい?『シン・ゴジラ』から考える現在の日本

2017年5月5日 07:37

■2016年に大ヒットを記録した『シン・ゴジラ』

 2016年7月29日に公開された『シン・ゴジラ』は、国内でも興行収入80億円以上を記録する大ヒットとなった。子供でも楽しめる怪獣対怪獣の平成ゴジラではなく、原発や政治面を強く押し出す群像劇が強い作品。大人向けのゴジラだが、現代人にはどのように映ったのだろうか。

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■『シン・ゴジラ』のあらすじ

 ある日、東京湾羽田沖で大量の水蒸気が発生する事案が発生した。それと同時に、東京湾アクアラインの崩落事故も起こる。突然の事故を受けて政府は対応を求められることになるが、刻一刻と変化する事態に後手の対処となってしまう。最終的に政府の要人たちは、テレビ画面にて巨大生物の存在を確認することになる。

 政府関係者の中でも、内閣官房副長の矢口(長谷川博己)は多方面からの対処を会議にて常々進言する。しかし、各省庁のトップや総理大臣はそれを受け入れず、巨大生物の上陸を許してしまう。さらには大田区から蒲田への北進を止めることができず、日本に大きな痛手を残すことになる。

 巨大生物の上陸を受けて、矢口は「巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)」の設置を行う。メンバーは各界の曲者ばかりで、従来の考え方に捉われない人たちであった。彼らは惜しみなく自分たちの意見やネット上に上がる情報を抽出し、巨大生物の調査を行う。その動きに米国の大統領特使のカヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)も目を付け、情報提供を行う。そこで、巨大生物の名前が「ゴジラ」と判明する。

■「既定路線」的発想だけでなく「集合知」の必要性

 『シン・ゴジラ』ではゴジラという驚異に襲われた際、日本が実際にどのような状況になるのか克明に映し出している映画だと観て感じた。ゴジラは核によって成長した生物で、まさに日本人にとっては忌むべき存在。そのゴジラが日本を縦断することで放射能がまき散らされるのは、原子爆弾を落とされた戦争のことや、東日本大震災のことを彷彿とさせる。

 そうした日本が窮地に陥るとき、日本の対応はどうだったのだろうか。戦時中のことは筆者にはわからない。だが、東日本大震災のときの政府の様子を見る限りは、『シン・ゴジラ』と同じように後手の対応ばかりだった印象だ。また、劇中でも各議員は安易な想定ばかり行い、次第には終わった後の財源の話ばかりしていた。大震災のときもそうだったのではないかと思わされる。

 日本の政府が安易な方策を出すのは、まさに映画の序盤で見られる「既定路線」での会話に終始しているからではないだろうか。はじめから結論が決まっている状態で話を進め、そのように動くと政府はなぜか計算をする。しかし、ゴジラのように想定外の存在が現れると、そんな既定路線はいとも簡単に崩れ去ってしまう。

 反対に、矢口が作る「巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)」は積極的に民間に情報を流すと共に、ネット上の目撃情報を参考にする。大事なのは「鵜呑み」にするのではなく、情報全体を取り込もうとする「集合知」という考え方だろう。

 集合知とは、1人が発信する情報や結果よりも、さまざまな人の意見や情報を統合したほうが正確な情報になるという考え方だ。『シン・ゴジラ』で矢口はこの考え方に則り、さまざまな機関や民間の情報を統合することでゴジラに対応することになる。

■これからも日本は変わらないでいいのか

 今の日本は北朝鮮というミサイルを持つ国と隣り合わせになっている。さらには大きな地震が今後やってくることも考えられている。その中で日本は憲法改正を目指すなど、大きく変わろうとしている。

 別に欧米を真似て変化することだけがいいとは思わない。だが、1947年以降なにも変わっていないルールや思想形態のままで、この国を動かし続けるのは少し無理があるのではないかというのが個人的な考えである。民間の人に迎合するわけではなく、大量の情報量にも負けないリードする力と編集するためのルールが、今の国政には求められていると感じる。

 ゴールデンウイークの5月3日は憲法記念日であった。時間があれば今の日本の情勢を考えながら『シン・ゴジラ』を見直してみるのもいいのではないだろうか。

 『シン・ゴジラ』はツタヤなどでDVDやブルーレイディスクのレンタル・販売をすでに開始している。(記事:藤田竜一・記事一覧を見る

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