戦国時代から学ぶ「男の嫉妬」への対処法とは
2017年4月6日 16:44
いつの世でも、既存の組織や人間関係は新参者やよそ者には排他的な態度で接するものである。特に、有能な者に対して己の既得権益や地位が脅かされるという危機意識を覚えた場合は、彼らの攻撃は一層激しさを増し新入りを組織から早々に叩き出そうとする。
そういった"嫉妬"を元にした妨害に対処するにはどうしたら良いのだろうか。戦国時代の軍師である山本勘助を例に、その対処を学んでいきたいと思う。
彼は、その半生を費やして体得した豊富な知識や経験を己の付加価値として、古くからの甲斐の守護職であった武田家に仕官を求めたのだが、その反発も強かったという。いわゆる、そうした抵抗勢力の1人が、武田家中の南部下野守宗秀という武将である。
この人物は、勘助の仕官以来その存在を苦々しく思っていたところに、ある時、部下の石井藤三郎という武士を手打ちにしようとして逃げられ、石井は勘助の宿に逃げ込んだという。この血刀を下げて死に物狂いの相手に、たまたま、刀を身近に置いていなかった勘助は部屋にあった心張り棒で立ち向かい取り押さえるが、勘助も手傷を負ってしまった。
その後、この石井を南部下野守に差し出したところ、感謝をされるどころか、「そもそも、国や城を持たない勘助が、兵法や城取りの術を指南するのは、おこがましい。さらに、兵法の使い手であれば、なぜ、手傷などを負ったのだ。」と、声高に"逆ギレ"して非難したのだ。
それだけではなく、石井は過去にも部下2人の手柄を奪ったなどの悪行があったことから、そうした乱行の数々はやがて信玄の耳に入り、ついには南部下野守は改易され甲斐から国外追放となった。彼はのちに会津まで流浪して餓死したと、軍学書『甲陽軍鑑』は記録している。
もっとも、新参者の勘助の存在を疎ましく感じていたのは、この南部下野守だけではあるまい。おそらく、古くからの家臣の中では、破竹の勢いで手柄を立てて、知行も倍増していく勘助の出世を苦々しく思っていた連中も少なからずいたことだろう。
しかし、板垣信方や馬場信春といった武田家の重臣は、勘助の持つ実力や見識の深さを正当に評価し、今後の武田家が拡大していく上では必要不可欠な存在として頼りにしていたことから、然るに「見る人は必ずどこかで正しく冷静に見ている」ものなのである。
現代のビジネス社会においても、新入社員や転職者は特に仕事のできるもの、人格者といったものたちは、自ずと周囲からの嫉妬と好奇な目に晒され不当な評価を受けるものなのである。
だが戦国時代の山本勘助の例に及ばず、競争意識の強い男社会の中は、そうした嫉妬に渦巻いていて当然のものだと割り切っていれば良い。嫉妬に駆られ妨害をするような未成熟な人間は、いつかその浅い精神性が周りに知れ渡り、左遷や降格、退職に追い込まれていくだろう。
すなわち、そんな幼稚な"嫉妬男"たちに、いちいち腹を立てたり不当を訴えたりする必要はなく、悠然と自分の仕事をしていれば良いということだ。(記事:マーヴェリック・記事一覧を見る)