現代でも活用できる戦国流「人事考課の評価UP法」とは

2017年4月1日 21:21

 稀代の軍師・山本勘助が武田家に採用された時期は、武田家がこれから、信濃に向けて本格的な侵攻を開始しようと意図していたタイミングであった。

 それゆえ、勘助はまず「城取り」名人、つまり、築城技術者として駿河より招かれた訳であり、勘助自身もその期待に見事に応えている。

 しかし、信濃に進出する信玄の前には、小笠原高時や高遠頼継、藤沢頼親、そして、長年のライバルとなる村上義清などの有力な戦国大名たちが連携して立ちふさがっていた。

 これらの敵を分断し、騎馬軍団の機動力を活かした「疾きこと、風の如く」の襲来で個別に撃破していった武田軍であるが、そうして戦線が拡大するにあたり、さらに敵の懐深くの戦場で苦戦を強いられる局面も増えてきた。

 そうした戦況においては、山本勘助としても「城取り」に通じた足軽大将という、専門の役割だけを果たしていれば良いという状況ではすまなくなった。いや、おそらく、そうした専業にのみ尽力する働きであっても、武田家中においては築城技術に長けたテクノクラートとして充分な地位を得ることも出来たことだろう。

 しかし、勘助の凄さは、そうした専門分野に留まっていなかったことにあるのだ。その働きが際立って見えたのは、信玄がその生涯で最大の危機を迎えたといわれる、「戸石崩れ」の現場であった。

 村上義清の思わぬ後詰の来襲により、戸石城兵と村上本隊との挟み撃ちを受ける羽目になった武田軍は、すみやかに撤退することを余儀なくされるが、村上軍の猛攻を受けて信玄の命令すら前線に届かない未曾有の大混乱に陥ってしまった。その混戦のさなかに、勘助は控えめに信玄に進言し武田の諸将に筋を通したのちに軍勢を預けられた結果、形成逆転の大活躍を見せた。

 おそらく、武田家中においては誰もが負け戦を覚悟したであろうと思われるその時に、巧みな戦術で敵の動きを逸らし、味方の陣を立て直したり士気を鼓舞することにより見事に戦局を打開したその動きは、まさに「戦さの神」の化身に見えたことだろう。

 勘助がこの戦いで見せた活躍により、その後の武田家中における評価は一気に高まったことは疑いようがない。

 信玄から賜った俸禄は、譜代の諸将と同格の八百貫になったわけであるが、それ以上に武田家の身分の高い者も低い者も誰もが勘助の存在を認めたことは信玄としても、自分の目に狂いは無かったことの証明として誇りに思ったことだろう。

 これは、現代の会社勤めなどにも通じる「人事考課の評価UP法」である。

 例えば、営業マンなどを評価する指標は営業成績や社内での仕事ぶりであることは当たり前であるが、それ以上に重要なのは担当する顧客からの評判や評価なのである。そして、そうした顧客からの評価を高める上では自分の本業だけを黙々とこなしているだけでは不十分なのだ。

 本当に優秀な営業マンは、「自分の商品」ではなく「自分という商品」を売っている。

 たとえば、ビールメーカーのやり手の営業マンは、スーパーの売り場を訪れた際に自社の陳列棚だけでなく、そのスーパーの酒類コーナー全体の見せ方や売り方の改善を提案するという。そうすることにより、自社製品のみならず他社の売れ筋商品までも積極的に提案し、売り場全体の売上向上を目指すことで、スーパーの仕入れ担当者からの絶大な信頼を勝ち得るわけである。

 一方、家電製品の訪問販売を手掛ける地域密着型の電気店では、営業マンが顧客の家庭の御用聞きをして廻り家電の要件以外の、例えば水道の調整といった無関係の依頼でも相談でも笑顔で対応するそうである。

 こうした動きのヒントは、まさしく、勘助が信玄から絶大な信頼を得たプロセスにあるといえるだろう。

 自分の守備範囲をしっかりとこなし、その上で、担当以外のことまで進んで手掛けることや、上司ばかりではなく部下や顧客に目を向けて全力で尽くすことにより、結果的にすべては自分の評価へと返ってくるのである。(記事:マーヴェリック・記事一覧を見る

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