なぜ残業時間は「100時間」が基準になるのか?
2017年3月22日 18:19
政府が導入を目指している時間外労働の上限規制で、議論になっていた繁忙期の1か月の上限時間について、「100時間未満」とする方向で、労使間の決着が図られる見通しとなったというニュースがありました。
「年間720時間」を前提としつつ、「2か月から6か月の平均80時間」かつ「月100時間」を上限とし、月45時間を超える時間外労働は6か月までとすることでは、おおむね一致していたということですが、経営側は「100時間“未満”」とすることは受け入れられないとして、調整が続けられてきたということです。
このような、いかにも条件闘争を醸し出す様子は、なぜ上限規制をするかというそもそもの本質を見失っている気がして、私は正直あきれてしまうのですが、それでも上限規制が導入されること自体は一歩前進だと思うので、その点だけは評価したいと思っています。
ただ、これまでの議論の中で、私がどうしても解せずにいるのは、この「月100時間」という時間数へのこだわりや執着のしかたです。少なくとも過労死ラインとして提示され、労災認定の際にも判断基準になる月80時間とは違っています。
この「残業100時間」へのとらえ方を考えていて、昔のことで思い起こしたことがあります。
当時、私がまだ企業内の人事部にいて、人事業務の経験がそれほどない頃のことですが、私がいたIT業界は、文字どおり長時間労働の巣窟のようなところで、常に残業問題が発生していました。今の「時間外労働の限度に関する基準」ができたのは1998年ということですが、時期的にはその前後のことになります。
この頃は長時間残業に対して、健康管理という視点も多少はありましたが、どちらかと言えば残業の多さが利益を圧迫するからというような、収支にかかわる理由から出た残業削減の話が多かったように思います。
私のいた会社では、残業100時間超という人が社員のうちのだいたい4~5%くらいいて、その一部は毎月恒常的に長時間労働をしていました。
そして、前述の行政からの基準がない頃は、月100時間というのが残業の多さとして目をつける一つの基準になっていたように思います。100時間を超えるのはさすかに多すぎるので、何か減らすための対策をするという話になっていました。
今の経営層にいる人たちというのは、この当時の現場でバリバリ働いていた人でしょうし、経営層に食い込んでいるということでは、長時間労働もいとわなかった人たちであろうと想像されます。
主にこういう人たちの中から、「月100時間くらいの残業は問題ない」というような話が出てくるわけで、あえて口には出さない人たちでも、本音ではそう思っている人がいるように思います。
ここで言われる「月100時間」というのは、何か合理的な理由があるというよりは、「忙しいときはそんなものだった」「忙しくなるとそのくらいの残業時間はあり得る」という、自分たちの経験に基づく感覚値ではないかと思います。
ただ、残業100時間という状態を冷静に考えてみると、例えば週休二日を維持したとすると、毎朝9時から23時近くまでコンスタントに働くことになります。
普通は何度かの休日出勤があるでしょうが、それにしても毎日21時以降までの勤務が当たり前になります。通勤時間が往復2時間程度だとして、毎日14時間以上は拘束されることになりますから、何とか睡眠時間を確保するのがやっとという状態でしょう。
こんな過労死ラインに間違いない働き方を、「繁忙期だから」という一般的な仕事の波の中でのこととして、許容範囲にしてしまうのはやはり問題だと思います。
こういう基準で議論されてしまう理由は、たぶん「忙しいとき100時間」という基準は、経営側と組合側の双方ともに、どこか感覚的にしみついているということがあり、これが認められなければ仕事が回らなくなる恐れがあると思っているのではないでしょうか。
私は、こんな過去の感覚値をもとに議論してしまうのは、今どきの話としては少し違うと思います。もしも感覚値ではない根拠があるのであれば、はっきり示してもらわなければ、なかなか納得できません。
月100時間という残業については、「自分も経験がある」「それくらいは普通のこと」という話をよく耳にしますが、普通に考えればあってはならないくらいの激務であるはずです。
労働時間の長さに対する感度は、もっと敏感であるべきだと思います。
※この記事は「会社と社員を円満につなげる人事の話」からの転載となります。元記事はこちら。