【コラム 山口一臣】大飯原発差し止め稼働のまっとうすぎる「凄い中身」(上)
2014年5月23日 13:02
【5月23日、さくらフィナンシャルニュース=東京】
●不合理な推論か
関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の運転差し止めを求めた住民訴訟で福井地裁は21日、再稼働を認めない判決を出した。樋口英明裁判長は、
「大飯原発の安全技術と設備は脆弱なものと認めざるを得ない」
「(住民の)生命を守り生活を維持する人格権の根幹を具体的に侵害する恐れがある」
などと理由を述べた。
これに対して、読売新聞はさっそく翌22日の社説で〈不合理な推論が導く否定判決〉〈昨年7月に施行された原発の新たな規制基準を無視し、科学的知見にも乏しい〉などと批判し、産経新聞も同日1面の「視点」で〈あまりに拙速で、「脱原発ありき」の判断と言わざるを得ない〉などと否定的な記事を書いていた。
本当に、そうなのか。ネットにアップされていた判決要旨の全文を読んだ。
感動した。久しく、こうしたまっとうな言説にお目にかかっていなかっただけに、ひとしおだ。まだ、この国にも「良識」と呼べるものが残っているのだと思った。
その源は、ひとことで言うと裁判体(裁判長)の「覚悟」である。
判決文に対して、読売が社説で指摘すように「科学的知見に乏しい」とか、ネット上に見られる「裁判官に技術的領域に関する判断をする資格があるのか」だとか、あるいは「判決文とは思えない感情的な内容」といった批判をするのはたやすいことだ。
例えば、判決はたびたびチェルノブイリ原発や福島第一原発の事故に言及しているのだが、チェルノブイリは黒鉛炉、福島第一と大飯は同じ軽水炉だが、沸騰式と加圧式の違いがある。
それをいっしょくたに「原子力発電所技術は…」と論じてしまっていいのだろうか?
技術に素人の私でさえ気になった。
だが、しかし、この裁判体には、たとえそんな批判や反論があっても、大事なこと、言うべきことは言わなくてはならないという信念が感じられる。そして、その覚悟は生半可なものではない。でなければ、あえて国(政府)の方針に逆らってまで「人として生きることの大切さ」のようなことを、てらいもなく謳いあげる、こんな格調高い文章は書けないだろう(それが裁判の判決として相応しいかどうかは別として)。
地裁の判決理由は、いきなり大上段に構えたこんな文言から始まっている。
〈ひとたび深刻な事故が起これば、多くの人の生命、身体やその生活基盤に、重大な被害を及ぼす事業に関わる組織には、その被害の大きさ、程度に応じた安全性と、高度の信頼性が求められてしかるべきである〉そして、
〈このことは、当然の社会的要請であるとともに、生存を基礎とする人格権が公法、私法を問わず、すべての法分野において、最高の価値を持つとされている以上、本件訴訟においても、よって立つべき解釈上の指針である〉
と、明確に言い切っている。それだけではない。(続)