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三菱・スペースジェット(旧MRJ)が最も恐れるのは「時代のニーズ」(2/3)
「スペースジェット」(画像: 三菱航空機の発表資料より)[写真拡大]
ボーイング・747ジャンボジェットもそうだ。アメリカ空軍の輸送機C-5計画が発端で、ロキード社に敗れたボーイングが「ロッキード社にC-5の民間機型を造られては生き残れない」と急いで作り上げたのが、B747ジャンボだったのだ。
【前回は】三菱・スペースジェット(旧MRJ)が最も恐れるのは「時代のニーズ」(1/3)
しかし1956年当時、日本で軍用機、特に輸送機など大型機を開発生産する能力はなく、それに旅客機を造ったこともなかった。そこで、国家プロジェクトとして「半官半民」の企業を作り、戦前の世界一周飛行で名をはせた実験機(航研機)の設計者、木村秀政を中心に旅客機開発に取り掛かった。
戦前からの旅客機製造の名門、アメリカのダグラス社が造るDC-3の後継機を造るとなって、日本の技術者が「最先端」として採用した方式がYS-11の姿だった。
第一に注目すべきは、「ターボプロップ双発」のエンジンだった。ロールスロイス・ダート7であったと記憶している。戦前から、つまりゼロ戦などでおなじみのレシプロエンジンを捨て、ジェット化すると英断したのだ。
その頃、爆撃機では純ジェット化が始まっていた(B47、B52など)が、旅客機はDC-7など新鋭機でもレシプロエンジンが主流で、ジェットエンジン化が遅れていた。
その中で、日本はジェットエンジンを装備するのだが、純ジェットエンジンでは「燃費」が悪いと考えられていた。特に、短距離旅客機では実現できないと目されており、YS-11は当時の最先端技術でも「ターボプロップ」の型式を選んでいる。後に、これが致命傷となるのだ。
またYS-11は、その姿からも鮮明だが、「グライダーのように短距離離着陸機」を目指していた。そのため国内線幹線から追い出されると同時に、ローカル線で生き残ることはできたのだった。それは上昇力と沈下率の問題で、採算性が取れるか否かになっていた。
YS-11が商業的に失敗に終わったとされる一番の問題は、国内幹線からボーイング・727、737などに追い出されたことである。また、世界の短距離線でも同じように追い出され、ローカル線にしか使われなかったことが致命傷となった。
「ジェット化に遅れた」と言ってしまえばそれまでだ。純ジェットエンジンは当時「ターボファン」ではなく、燃費性能がひどく劣り騒音が激しかった。
スペースジェットのターボファンジェットエンジンの外形の大きさに注目してもらいたい。それは推進力の多くを「ファン」によって得ているのだが、当時の純ジェット(B707、B727、B737、DC-8、DC-9など)は純粋に「排気噴射」である。(記事:kenzoogata・記事一覧を見る)
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