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マイナス評価の共有は教育につながるのか
家電量販店「ノジマ」の社長が、買収した子会社のある社員を「使い物にならない」と実名を明かして非難し、その発言内容を社員も閲覧できる社内ネットワーク上に掲載していたことが報道されて、パワハラにあたるのではないかと批判されています。
当事者の社員は、その後退職しているようですが、会社はそれらが事実であることを認めた上で、「社員教育の一環」と言っています。「良い事例も悪い事例も社員に対してオープンにする」のだそうです。
買収した子会社については、決算説明会のような公式の場でも、「社員のどの人がよい人か悪い人か、差が激しかった」などと発言しており、特に人材に対するイライラ感が伝わってきます。社長にとっては、たぶん思惑通りに動かない人が多かったのでしょうが、会社の成り立ちが違えば企業風土が違うのは当然です。価値観も常識もすべて違うでしょう。
人材の評価で「良いか悪いか」「優秀かそうでないか」は、はっきりいってその会社の主観でしかありません。何でも細かく指示を仰いで行動する社員を「組織のルールに忠実で優秀」という会社があると思えば、指示を待たずにどんどん自分で開拓していく社員を「行動力があって優秀」という会社もあります。価値観の違いなのでどちらが良いとは言い切れませんし、もしそれを変えていくのであれば、それなりの時間が必要になります。
もし当該社員にそれほど問題があったなら、社内規定に基づいた懲戒処分なり、上司を通じた指導なり、人事評価への反映なりをしていけば良いはずで、それをわざわざ個人名を挙げて、経営トップ自らが全社員に向けて公開処刑のように非難するのは、さすがに教育とは言えないでしょう。
社員に何か問題があったとしても、これではパワハラとしか言えませんし、こういうことを疑いなく、躊躇なくやってしまう会社には怖さを感じてしまいますが、この件をきっかけに「個人評価を共有することが、果たして社員の教育につながるのか」を少し考えてみました。
まず、よく見かける光景として、「営業成績の公開」があります。個人別の売上実績などがグラフで貼りだされていたりしますが、これ自体は教育というよりは、営業担当者同士の競争心をあおる目的の方が大きいでしょう。ただ、こういう序列は意外に固定化していることも多いので、その目的自体が薄れていることもよく見受けられるところです。
また、営業成績の良い人を認識して、その人の行動を真似してスキルを身につけようとするのであれば、「仕事ができる人」を共有することに教育的な意味はありますが、その一方で「できない人」の共有は、個人が見せしめの材料にされがちなので、それを教育とは言いづらくなります。
全社員の人事評価結果を公開するような会社がありますが、やはり競争意識を受け付ける目的の方が強く、結果を見て反省するくらいしか教育的な見地はありません。私の経験では、不公平感を助長したり嫉妬心を生んだり、ネガティブな思考を助長することの方が多いと感じました。
社内で起きた成功事例や失敗事例の共有は、教育につながりますが、失敗事例で個人の責任による部分が多いものだと、限りなく見せしめに近くなり、教育的な要素が薄まってしまいます。伝える場や伝え方に配慮しなければなりません。
こうやって見ていくと、特に個人のマイナス評価にあたるものを共有するのは、私はただの見せしめで教育にはつながっていかないように思います。
少なくとも、大勢の前で個人の非を責めることを、私は教育とは思いません。
※この記事は「会社と社員を円満につなげる人事の話」からの転載となります。元記事はこちら。
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