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ソニーに金融機関(ソニー生命)をもたらした故盛田昭夫の執念 (1)
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ソニーの前身、東京通信工業は1946年(昭和21年)に井深大(ソニー・元会長・社長)を中心とする複数の創業者により産声をあげた。1958年にソニーに社名を変更しているがその時から既に井深と盛田には、共通した強い思いがあった。
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話は横道にそれるが、社名「ソニー」の生みの親は当時の社長井深と副社長の盛田とされている。が、盛田からはこう聞かされた。
「トランジスターラジオの生みの親の井深さんは大変なロマンチスト。音(SONIC)の語源となったラテン語のSONUSと小さい坊やを意味するSONNYを組み合わせてソニーという名を考え出した。音がうちの原点だがこれに満足しきったらダメだ。小さい坊やのような純な気持ちでこれからもやり続けていこうや盛田さん、と言われた」
社名変更の役員会はもめた。
「片仮名の社名など日本には全く馴染みがない。カッコ悪い」という声に始まり「ソニーでは一体なんの会社か分からない。せめてソニー電子工業とかソニー通信工業とかが妥当だろう」云々まで様々な異論が出た。
だが井深も盛田も一歩も譲らなかった。
「ソニーじゃなんの会社か分からないというが、そこがポイントなのだ。我々は我々の会社を単なる電子工業会社や通信工業会社で終わらせるつもりはない。それはみんなも同じだろう。我々は企業グループを作り上げるのだ。だからソニーがいいのだ。ソニー電子とかじゃ困るのだ」といった具合に言い張り続けた。企業グループを作るという点で両雄は共通していた。ようやく新社名がソニーと決まった時も2人はあらためて「企業グループを作ろう」と確認し合った。その上で盛田は井深にこう言った。
「井深さん世の古今東西を問わず、成功した企業グループには必ずグループ企業を資金面で支える金融機関がつきものだ。僕は絶対にソニーの金融機関を持ちたい。できるなら銀行を持ってみたい」
いま生保企業をはかる「保険料等収入」「保有契約高」で第5位にランキングされる、ソニー生命への入口だった。
1980年代終盤。当時会長職にあった盛田は本社会長室以外にプライベートオフィスを持ち、好んで身を置いていた。「じっくりとことを振り返りたい時とか、じっくり話し込みたいときなどはここが一番。みょうな邪魔などが入らないから」と言い、来意をあらためて告げる間もなく「あれは1956年のことだった。僕はこの年もシカゴのミシガン湖に面したコンラッド・ヒルトンに出かけた」と呟きに近い口調で語り始めた。
シカゴ行きは1953年に旧東京通信工業の切り込み隊長として初めて米国に足を踏み入れて以来の、欠かすことできない盛田の年中行事だった。コンラッド・ヒルトンでは毎年アメリカの最新音楽と音に関する日本流にいえば「見本市」が開かれていた。不可欠な年中行事へのこの年の参加は、盛田にとり運命的なシカゴ詣でとなった。
「会場を出て車のドアのノブに手をかけた瞬間だった。湖畔近くに前の年まではなかった文字通り白亜のビルディングが目に飛び込んできた。当時もミシガン湖から見て内陸部には大きな建物があった。が、湖畔近くはいまでこそビジネスエリアとなっていてビルも多く建っているが、少なくても1955年にはビルと呼べるようなものはなかった。それが内陸部でもお目にかかれないようなどでかいビルディングだった。ビルにはプルデンシャルと書かれてあった」
盛田は会場に取って返した。
「僕はあの頃プルデンシャルがなんの会社か、まったく知らなかった。だが事業家のはしくれとして“あんなでかいビルが建てられる会社というのはどんな事業をやっているのだろう”という思いを強烈に抱いて、戻った会場で知人からプルデンシャルってなんの会社かと聞いた」
これが盛田とプルデンシャル保険の出会いだった(敬称略)。(記事:千葉明・記事一覧を見る)
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