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【増えるトラブル(上)】東名高速 追い越し車線で進路妨害 後続車に追突されて死亡
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道路上での運転者同士のトラブルが増えているようだ。今年6月に起きた東名高速道路での事件は、日常的な暮らしの中で「注意した」ことで、相手に「逆切れ」される典型的事例となった。
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ある時、駅のホームに母子が入ってきた。子供が走り回り「危険」を感じていた。電車がホームに入る音がし始めたとき、子供がホームから這いつくばって、線路をのぞき込む姿勢をとったのである。首だけホームから出ており、電車が入ってきたら、「首が飛ぶ」状況であった。私は動いて子供に注意しようとした。電車を待つ列で私の前にいた人も、子供に近寄ろうとした。その時、母親が気付いて子供を引き戻した。
母親が子供を叱った。「恥ずかしいことをしないでよ!」。私と列の前の人は顔を見合わせて呆れた。ホームで子供を放置するのも呆れるが、子供の命を心配するのではなく「恥ずかしいこと・・」の言葉からは、母親自身の体裁しか感じていない様子だった。この子は「自分の身を御す」ことが出来るようになるのであろうか?
最近の人間関係では「批判」はタブーとの認識だが、「批判と悪口」の区別がつかない人が増えている。根本的に「批判、批評」と「悪口」は違う。それは「客観的基準を持っているのか?」が、まず問われよう。
「悪口」は「客観的基準がなく」「好き嫌い」だ。一方、「批判、批評」は、客観的基準をどこに求めるのかがカギとなる。その基準についての議論は大いにあるべきなのだ。「感覚論」「わがまま」とは離れて「俯瞰して」物事を見つめ直す勇気が必要だ。
■逆切れ事件の増加の原因
たしかに「育て方」に問題があることは隠しようもないだろう。「わがまま」の行き過ぎた姿勢、「しつけ」されていない人々が多数を占めるようになった。「親の教育」「学校教育」などの問題があることは紛れもない事実だ。社会のシステムの作り方、価値観が、結果を見ると「極端なわがまま」に向いていたことになる。それが社会制度を成り立たせなくなるほどの「わがままである」とみえる。
国会では「どうあるべきか」を議論して、国の根幹を決める。「憲法議論」がそれだ。最近では「どうあるべきか?で縛られずに自由に生きよう」とするキャッチコピーすら見かける。つまり、結果として無政府状態を自由と呼んでいる。ならば、たしかに国全体がその方向に向かっている。行きつく先は、各人が「わがまま」にふるまい、決着は「暴力」によることになる。それは「戦国時代」よりも、「個人時代」と呼ぶべきかもしれない。
社会基準は何もない。破滅覚悟の「わがまま」な振る舞いと言えよう。あとは個人個人で戦うことになる。(記事:kenzoogata・記事一覧を見る)
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