関連記事
人工頭脳(AI)時代に人間翻訳は生き残れるか?:第六回 「浮草物語」と「荒野の用心棒」
二、三日前にこんなニュースがあった。スマホのカメラを日本語の料理メニュウに向けると、料理名が瞬時にディスプレイに外国語で写し込み読めるという。メニュウに限らず、看板でも写し込んで読めるというのだ。AI機能の新手のようだ。新しいと言おうかなんと言おうか、なんとも奇天烈な時代になったものである。
さて、お約束の「翻案」の話。AI翻訳と人間翻訳を語るとき、その種々相をいまひと掘りしてみたいのだ。翻訳という芸の方法論だが、単に言葉を言葉に置き換えるtranslateの傍にtransformともtransfigureとも言える相があり、換骨奪胎もかくやという翻訳がある。今回はそれを「翻案」という言葉で括(くく)って、deep-learning育ちのAI翻訳を意識しながら考えてみたい。
諸賢は小津安二郎の初期(1934年)の作品で名作といわれる「浮草物語」をご存知だろうか。セルジオ・レオーネの「荒野の用心棒」は如何?前者はアメリカのG.フィッツモリスの「The Barker (煩悩)」が原作の邦画で、後者は黒沢明の「用心棒」を下敷きにしたマカロニウエスターンだ。どちらも翻案というジャンルのもので、広義には翻訳作品だ。
圓朝の西洋人情話
ある文化が翻訳されるとき、しばしば前述の映画のように映像を介して翻案という形を採る。言葉が活字から話し言葉に、それに映像と音楽までもが付加されて、その文化のエッセンスが効果的に伝播される。翻案は広義の翻訳で、ごく効率的なメディアムだ。(この瞬間、筆者の脳裏にはAI翻訳はこの世界をも冒しうるかも知れぬとの妄想が過(よ)ぎる。)
落語界の大御所、三遊亭圓朝の速記本を見ると、「鰍沢(かじかざわ)」や「真景累が淵(しんけいかさねがふち)」など日本古来の物語に混じって、英国の話を「西洋人情話」と題して登場人物を和名に換え、地名も相応に移し替えて語っていた。圓朝の話術を以ってすれば、あたかも映像ありきの如き一席だったろうから、これは上述の「浮草物語」さながらの翻案だ。語りには台本があり、言文一致の書き言葉、それもごく活性の高い有機的な言葉が溢れている。二葉亭四迷の言文一致を触発したという圓朝の独壇場だ。
ご案内のように、圓朝は余所ものの原作を扱うとき、舞台、登場人物絡みの「直訳」を避け、換骨奪胎して「意訳」を選んだ。翻訳でなく翻案をした、とも言える。明治のことだ。横文字の地名、人名が寄席には馴染まないから、との案配だったかもしれないが、じつは圓朝自身は結構ハイカラ趣味もあり、速記にも随所にその気配が見えるのだ。ということは、換骨奪胎は文化の転移効果を狙ってのことだったろう。物語の活性をそのまま移そうとすれば、横文字よりは….ということで西洋人情話と題しながら和風を装ったに違いない。(どうだろうか、AI翻訳にそんな芸当ができようか。)
圓朝の場合、西洋を東洋へ、文化を効果的に転移させる作業のプロセスで生半可でない思い入れと趣向が凝らされている。シェクスピア戯曲を原典から「純訳」した坪内逍遥や福田恒存らの拘りとは異質の文化的配慮が散りばめられている。翻案とはそういうものだ。
AIはついに圓朝を抜けない
本題に戻ろう。ひとつ乱暴な議論をさせていただく。前掲の松尾氏の見解が掛け値なく信頼できるとすれば、deep-learning の洗礼を受けたAI翻訳は坪内や福田を「出し抜く」かもしれない。だが、ついに圓朝の翻案には届くまい、というのが筆者の実感だ。いかにAIがdeep-learning を経て「意思」や「情緒」を獲得したとしても、文化の転移効果を狙って西洋の原典(西洋人情話英国孝子ジョージ・スミス伝)からスマイル・スミスを清水助右衞門に、息子のジョージ・スミスを清水重二郎にすげ替えることで、この物語の翻案(翻訳)を企てるとは思えないのだが、如何だろうか。
この段階で筆者は、一つの世界を思い描いている。翻訳という世界は客観的な情報伝達のメディアムとしては、AIが人知を超えるというsingularityを待たずにAIの後塵を拝することになろう。しかし、「意のあるところを伝える」ため、「思いを植え替える」ための手練手管としてなら、人間翻訳はついにAIに後ろをみせることはない、という美意識に根ざした世界だ。
生きた言葉遣い
名作映画よし、圓朝もまたよし。どちらも翻案によって文化を移植しているのであり、そこでは映像や言葉がそれぞれ作品のメッセージを右から左へtransportするvehicle(乗り物)道具として使われている。いわば文化移植のロジスティックスだ。ならば、人間翻訳なるものが、障碍の予知不能な難路をも柔軟に走り切れるvehicleになり切れれば、言い換えれば、翻案をも意識した広義の翻訳が、ときに辞書にない言葉を造語さえもして「生きた言葉遣い」を駆使できれば、deep-learning育ちのAI翻訳に後れをとることはあるまい。AIの足音を背中に聞きながら、筆者はそう考えている。
次回は、そんな「生きた言葉遣い」の会得を視野に、懸案の二刀流談義をお聞きいただく。文化の翻訳などと広言を吐いての談義だが、こと英語については、筆者には及ばずながら傘寿を超える「年の功」があり、言葉を操りながらの旅路で歩いた無駄道のあれこれ、取り返しのつかぬ後悔の思いの数々もある。だが、そんな凹凸を全て撫ぜ慣らして思うのは尽きぬ言葉の妙であり、それを操る翻訳という作業の醍醐味だ。次回は、その辺りの蘊蓄(うんちく)をご披露したい。
スポンサードリンク
関連キーワード